1963年(昭和38年)に発生し、日本中を震撼させた「吉展ちゃん誘拐殺人事件」。

 犯人・小原保からの電話を、日本中が固唾を呑んで聴いたこの事件では、警察の“信じられない失態”が連続していた。犯人からの脅迫電話を録音する装置を忘れ、被害者の父親に用意させた捜査員が身代金受け渡しの現場に向かうも、警察手帳を持っておらず、商店主に怪しまれて足止めを食らう……。

 当時のあまりに杜撰な捜査実態、その結果生じた悲劇とは。フリーライターの本橋信宏氏の著書『昭和の謎』(大洋図書)の一部を抜粋して紹介する。

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写真はイメージ ©YOSINAKA/イメージマート

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史上最大の誘拐事件

 1963年早春。上野の時計店で職を得た小原保にとって、まさか一カ月後、自分が歴史上最悪の誘拐魔と呼称されるとは、夢にも思っていなかっただろう。

 1933年(昭和8年)1月、福島県の寒村で生まれ、育った。両親にとって十番目の子どもだった。幼いころ足のあかぎれがもとで破傷風になり、以後成長してからも歩行時に足を引きずるようになった。中学を卒業すると足が悪くてもできる仕事をと、時計修理の技術を学んだ。

 60年代初頭、時計はゼンマイ巻きが主流で、時計修理工が人気職種だった。腕のいい修理工になろうと小原少年は上野駅で降りると、上野御徒町の時計店で働き出した。

 酒場の女と同棲し、酒好きもあって、借金が膨らむ。職を失い、故郷福島に一時帰省し、再び上野駅に降り立ったのは1963年3月31日だった。

 後の取り調べによると、小原はこの時点で児童を誘拐して身代金を奪おうと計画したことになる。上野駅を吐き出された小原は、不忍池で時間をつぶし、灰色の脳細胞を駆使して、犯罪計画を具体化していく。

 ヒントになったのは、映画館で観た黒澤明監督の新作「天国と地獄」の予告編だった。エド・マクベインの小説『キングの身代金』を原作としたこの映画は、三船敏郎演じるシューズメーカーの社長が誘拐犯から息子を誘拐した、と脅迫され、捜査側と犯人側の息を呑む攻防戦が物語の中心になる。本作はあまりにもリアルで、「天国と地獄」を模倣した誘拐事件が多発する。優れた作品は時として毒にも薬にもなるのだ。

 小原は映画本編ではなく、予告編を観て犯行を思いついたとされる。