映画「天国と地獄」では捜査陣がちゃんと犯人からの脅迫電話の録音に成功しているというのに、現実の警察は録音装置の設置を忘れるレベルだった。逆探知も当時は通信の秘密をたてに、禁止されていた。犯罪という緊急事態を前にして郵政大臣の高度な政治的判断でやっと逆探知が認められた。この間、逆探知で電話をかけている小原が確認されれば、逮捕できる可能性があったのだが。

 小原は深夜、吉展ちゃん宅に電話をかけて、品川自動車に止めてあるクルマの荷台に現金50万円を置くように命じた。

 50万円は現在の貨幣価値でおよそ500万円。人の命を扱う事件では安すぎる額だったが、当時、上野界隈では十分過ぎる現金だった。

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警察手帳を忘れ、紙幣の番号は控えていない…

 犯人からの突然の最後通牒に、捜査陣は慌てた。たまたまその日は、連日の張り込みで疲労していた現場の最高指揮官が初めて自宅に帰る時だった。こんな時、事件は起きるものだ。近くの署から立ち寄った警部補が、急遽、小原からの電話で緊急警備体制の最高責任者になってしまった。

 警察は階級制なので、階級が少しでも上の人間の命令が絶対なのだ。

 吉展ちゃん宅の工務店の法被を着た刑事たちが、現場に向かうことになった。吉展ちゃんの母が現金50万円を持ち、工務店のクルマの助手席に乗って、品川自動車まで向かった。運転手は工務店の従業員、荷台には刑事が一人、隠れていた。

 法被の刑事たちが先に現場に到着するまでクルマは待っていなければならないのに、捜査陣は「待て」の指示すらはっきり出さず、クルマはすぐに品川自動車に向かって走り出してしまった。

 焦ったのは法被の刑事たちだ。クルマに置いていかれてしまい、全速力で夜の下町を走る。たき火をしていた近所の商店主たちの目にとまった。法被を着ているが、工務店にはこんな男たちはいない。詰問すると、あやふやな答えをするばかりだ。必死になって現場まで走ろうとする刑事たちは、自分たちが警察だと説明した。

「だったら警察手帳を見せろ」

 商店主たちが要求すると、法被の刑事たちは慌てた。命の次に大事な警察手帳を、着替えの時に吉展ちゃん宅においてきたままだった。警察手帳を持たない法被の刑事たちをますます商店主たちは怪しみ、通せんぼした。もつれるようにして、刑事たちが現場に到着した時にはすでに現金は消えていた。まだ犯人は現れていないと勝手に判断した刑事たちは、その後1時間以上、じっとクルマを守っていた。

 ミスはまだあった。身代金50万円の紙幣ナンバーをひかえていなかったのだ。誘拐捜査マニュアルも存在しない、おそまつな時代の警察だった。