1965年7月4日逮捕、翌5日、小原自供、吉展ちゃんの遺体発見は臨時ニュースとして流れ、NHK特別報道番組「ついに帰らなかった吉展ちゃん(昭和40年7月5日)は視聴率59・0%に達し、報道番組として歴代最高視聴率を記録した。

「刑事一代−平塚平八郎の昭和事件史」(佐々木嘉信著、産経新聞社編、新潮文庫)は、八兵衛の回想録であり、聞き手の佐々木元記者から私は当時の貴重な現場の実態を聞いた。全面自供してからの小原は、人が変わったかのように素直に取り調べに応じた。

鼓動を指に聴きつつ眠った小原保

 死刑判決が出て、小原は「土偶」という短歌の会に所属して歌を詠んだ。小原にとって上野は、北の玄関口であり、東京という夢物語の始まりであった。小原が職についた上野御徒町は、江戸時代から装飾品の技工士が住み着く街であり、戦後は時計・装飾品の街として都下最大級のジュエリー街になった。

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 最近、私は『上野アンダーグラウンド』(新潮文庫)を上梓し、上野にまつわる土地と人々のドラマを紡いだ。小原が時計修理工として働いていたジュエリー街は今も健在で、最近では強盗団に襲われ、店長が刺股で応戦する動画が配信された。小原が暗い情念で犯行を決意した不忍池は、今も蓮が湖面を覆う。

 当時、不忍池の蓮の群れの下に吉展ちゃんが沈んでいるのでは、という都市伝説まで流れた。今でも東北や北関東の人々が上野駅から吐き出され、東京で夢を拾いに散っていく。うちの女房の実父は北津軽郡の生まれで、毎年冬になると出稼ぎで上野駅までやってきた。長年の農作業と出稼ぎの土木工事で脚が極端にがに股になっていた。出稼ぎの辛い期間、唯一の楽しみは上野の街ですすったラーメンだった。

 いったい義父はどこの店のラーメンを気に入ったのか、私は取材をかねて歩き回った(顛末は文庫に綴った)。

 1971年(昭和46年)12月23日、小原保、死刑執行。享年38。

 短歌の会では福島誠一という名前だった。苗字は生まれ故郷の福島県から、名前は生まれ変わったら誠実一筋に生きる、という意味を込めて。獄中で罪を悔い、投稿した短歌は378首におよぶ。残忍な事件を犯した男が詠む歌かと思うほど、高潔であり、名歌ばかりである。小原は看守に伝言を頼んだ。

「今度、生まれてくるときは真人間に生まれてきますからと、どうか、平塚さんに伝えてください」

 言葉は看守から電話で、3億円事件捜査本部にいた平塚八衛兵刑事に伝わった。後に八衛兵は小原の墓を訪れるが、罪の重さゆえにか、墓は見当たらず、土が盛られた箇所があるだけだった。

 当時、死刑は執行日の前日に死刑囚に言い渡されることが慣例になっていた。

 死刑執行前日、小原保は辞世の句を詠んでいる。

 明日の死を前にひたすら打ちつづく鼓動を指に聴きつつ眠る

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