80年前、日本の敗北で終わったあの戦争の間、日本の軍人や医師による生体解剖が行われた。公になったのは戦争犯罪として裁かれたわずかなケースだが、実際にはほかにも知られていないいくつかの例があったといわれる。

 どのような状況で、どのような人々がどのような思いで手を下したのか。そこから見えるものは何なのか。当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は適宜書き換え、要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。人名は適宜実名を外した。軍人の肩書きは戦後「元」が付くが、煩雑なので新聞の見出し以外は現職の肩書きで記す。(全3回の3回目/最初から読む

「九大生体解剖事件」(1945年)の犠牲となったB29乗員たち(『真相―最後の目撃証人の実証記録』より)

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「九大生体解剖事件」首謀者の1人・石山教授が遺書に綴ったこと

 逮捕の4日後に獄中で自ら命を絶った九州帝国大学(当時/以下九大)医学部の石山福二郎教授は、数通の遺書を残していた。

 法廷に提出された1通は妻への感謝を述べた後、「米捕虜に手当てを加える事に誠意をつくしたが、我(が)心を諒解さす事が出来ぬ。我(が)子ははづかしがる事はない」と記述。「医師達に対して」として「萬(万)人の死に値する馬鹿の医師の死を許せ。研究は終りまで続けよ」とした。

 さらに「隣室(隣の房)の軍人は罪をのがれる会話をして居る。何と耐え難い事か」と批判している。別の1通には「一切軍ノ命令ナリ 責任ハ余二アリ」とした後、「手術」に参加した4人の名前を挙げ「余ノ命令二テ動ク (ねがわ)クバ(すみやか)二 釋(釈)放サレタシ 十二時 平光君*スマヌ」と詫びている。
*平光吾一=当時の九大医学部の教授(解剖学)で、解剖室の責任者だった。のちに事件を記した自伝的小説『戦争医学の汚辱にふれて』(1957年)を発表

石山教授の遺書(『真相』より)

 九大医学部出身の丸山マサ美『バイオエシックス―その継承と発展』(2018年)は生命倫理がテーマだが、巻末にアメリカ公文書館で発見した、次のような石山教授の自筆資料を載せている(※文中カタカナをひらがなに変換。適宜句点を入れるなどした)。

「昨年6月16~17日ごろ、西部軍小森軍医より電話にて、今すぐ外国軍人の重傷者につき相談ありしも、従来外国軍人取り扱いで規定なきゆえ断りしに、注射薬の相談ありしゆえ、その時研究中の海水稀釈液の注射を教ゆ。その後3時間ほどで死亡の通知あり。よって外科へ連れ来るも無益なりと言いしに、解剖へ連れ来る。その時さらに注射を行いしも、ついに効なし。よって解剖す。その後、6月19日、福岡空襲あり、小森負傷す。足部切断せしも、破傷風を起こして死す。その際、何人の命令にて外国軍人を扱いしか明らかにせず」

 口供書と内容が重なることから、取り調べ段階で書いた経過説明の上申書のようなものかもしれない。事件の日付を1カ月以上、後にずらしたうえ、捕虜は1人で解剖は死後だったと主張。生体解剖を否定する一方、捕虜の扱いが誰の命令だったか、空襲で重傷を負った小森見習士官に問いただしたが答えが得られなかったとしている。やはり不安もあったのだろう。