80年前、日本の敗北で終わったあの戦争の間、日本の軍人や医師による生体解剖が行われた。公になったのは戦争犯罪として裁かれたわずかなケースだが、実際にはほかにも知られていないいくつかの例があったといわれる。

 どのような状況で、どのような人々がどのような思いで手を下したのか。そこから見えるものは何なのか。当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は適宜書き換え、要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。人名は適宜実名を外した。軍人の肩書きは戦後「元」が付くが、煩雑なので新聞の見出し以外は現職の肩書きで記す。(全3回の1回目/続きを読む

※写真はイメージ ©AFLO

◇◇◇ 

ADVERTISEMENT

大学総長、医学部長ら5名に逮捕命令

 生体解剖で最もよく知られているのは九州帝国大学(当時/以下「九大」と表記)医学部で起きた事件だろう。上坂冬子『生体解剖―九州大学医学部事件』(単行本1979年、以下『生体解剖』)などのドキュメントもある。実施されたのは敗戦直前の1945(昭和20)年5月から6月にかけ、4回にわたってだったが、明るみに出たのは敗戦後。地元紙・西日本新聞の1946(昭和21)年7月18日付は1面トップで次のように報じた。

荒川元九大総長・石山医学部長ら 戦犯五氏に逮捕命令

 マ(マッカーサー)司令部は12日付で日本政府に、元九大(九州帝国大学)総長・荒川文六博士、同大医学部の石山福二郎教授(外科部長)、平光吾一教授(解剖学)、石山外科の助教授2人の5氏を戦犯容疑者として指名、逮捕のうえ第8軍に引き渡すべきと命令した。

 マッカーサー司令部とは日本の占領・統治に当たった連合国軍総司令部(GHQ)のこと。第8軍はその下で実際に日本に駐留したアメリカの部隊。記事は5人の顔写真が添えられ「捕虜虐殺の容疑」の中見出しを挟んで続く。

「九大事件」摘発を伝える西日本新聞

 さきに学園民主化運動を起こし、好ましからざる教授の追放その他、新しい学園の在り方について苦悶を続け、最近ようやく波乱が収まったかに見えた九州帝大からついに戦犯容疑者を出すに至った。

 

 かつて学の自由を標榜した大学、最も民主的であり、進歩的かつ人道的とされていた大学において、野蛮極まる捕虜虐殺の容疑で数名の幹部が逮捕命令を受けたことは、戦時中軍閥が学園に加えた圧迫がいかに甚だしかったとしても、日本の学園の歴史にぬぐうべからざる汚点を印したといえる。

 

 しかも、民主化運動の一環として医学部幹部の進退問題が俎上(そじょう)にのぼった際、捕虜に対して言語に絶する残虐行為が同学部の一部職員と西部軍*との共同の下に同大学の解剖台上で行われたなどの流言が伝わった。これが民主化運動に少なからぬ影響を与えた事実を想起するとき、今回の戦犯容疑者の逮捕命令で九大は再び民主化への新たな出発点に立たされたわけである。
*西部軍=中国、四国、九州の部隊を指揮・統率した旧日本陸軍の軍組織で、本部は福岡市