医学部で民主化の動きが先鋭化
記事は「捕虜虐殺」を中見出しに立てながら、容疑の内容より学園民主化への影響を重視した印象だが、記者も事態の重大性を十分把握できなかったのだろう。確かに、敗戦後九大はGHQの指令を受けて学内刷新の動きを見せ、特に医学部では学生大会で「教授が君臨する封建制」を批判。1946(昭和21)年2月には、全教授が辞表を提出し、刷新委員会を中心に民主化の動きが先鋭化していた。
『九州大学五十年史』(1967年)は、「医学部の刷新運動が積極的に進められた大きな理由に」「いわゆる生体解剖事件があったことは否めない」としている。
西日本の記事にはこの後、5人の略歴が載っている。この事件の中心人物である石山教授については「東京都出身、54歳。外科学担当。大正5(1916)年、九大医科卒業後、同校助教授、台北医専教授、岡山医専教授などを歴任。昭和16(1941)年、九大教授となる」とある。
発端は新聞社宛てに届いた“密告文”
当時医学部解剖学第2講座の平光吾一教授の研究補助員をしていて生体解剖を実見した東野利夫の『真相―「九大生体解剖」最後の目撃証人の実証記録』(2019年、以下『真相』)などによれば、終戦直後、大学や西部軍は捕虜殺害について緘口令を敷き、すさまじい証拠隠滅工作を進めた。「捕虜の多くは広島に送られ、そこで被爆死した」などの筋書きが描かれた。
そんな中、『生体解剖』によると、西日本新聞編集局長宛てに捕虜の生態解剖を密告した英文と日本文の封書が届いた。編集局長はそれを部下に渡し、部下は旧知の九大附属病院長に見せたという。これでは緘口令も有名無実で、事件は九大周辺に広く知れ渡っていた。記事にある「流言が伝わった」はそのことを指すのだろう。占領軍が摘発しなければ、新聞も動かなかったのが実情だった。
それにしても、当時はGHQの検閲があったとはいえ、記事が発表の6日後とは、その間に何があったのか。
GHQによる戦争犯罪容疑者追及の動き
GHQの戦争犯罪容疑者追及の手は執拗だった。1945年12月15日付毎日は「裁かれるB・C級三百余名 死刑にはマ元帥の確認を要す 戦争犯罪・横濱(浜)軍法會(会)議の構成」の見出しで、第8軍法務官の発表を基に、横浜で開かれる戦犯裁判の見通しを伝えた。
GHQの捜査機関は九州の空襲で捕虜になったアメリカ爆撃機搭乗員の行方を追跡。『真相』によれば、1946年3月、九大医学部に連合軍捕虜に対する手術の有無を問い合わせ、九大側が全面否定の回答を出すと、5月中旬、3台のジープで乗り付け、解剖学実習室を捜索した。既におおよその事実関係を把握していたのだろう。
『東京裁判ハンドブック』(1989年)、半藤一利・秦郁彦・保阪正康・井上亮『「BC級裁判」を読む』(2010年)によれば、第2次世界大戦中の特定の地域で「通例の戦争犯罪」を犯した者に連合国各国が行ったのがBC級戦争犯罪裁判。横浜ほか国外各地で開かれた。




