軍部が「日本軍は降伏しない」とし、自国兵士が捕虜になることを厳禁していたからで、それは1941年1月に、陸軍大臣訓令として出され「生きて虜囚の辱めを受けず」で知られる「戦陣訓」に体現された。自国兵の捕虜を認めない国が敵国兵の捕虜を人道的に扱うだろうか。捕虜問題を重視する風土が日本にはなかったと言わざるを得ない。捕獲した敵兵は軍律会議を経て正式に捕虜と認定するが、そうした手続きが煩わしいとして「捕虜は適当に処置する」ことが現場の部隊では常識化していたとみられる。
事件当時激化していたB29の市民に対する無差別爆撃などを戦争犯罪とする見方は根強く、捕獲乗員を捕虜ではなく戦犯とみる傾向が国民の間にあったことが事件にも影響したと考えられる。さらに、東京裁判やBC級裁判の内容には客観的に不当とみられる点があり、「勝者の復讐裁判」という指摘はいまも根強い。
彼らを踏み込ませたものは何だったのか?
「九大生体解剖事件」を振り返る時、そこに帝大医学部のヒエラルキーの上に立った石山教授と、それを利用した小森見習軍医の医学者としての探求心と自負、それと背中合わせの功名心があったことは否めないだろう。それでも捕虜に対する人体実験・生体解剖という異常行為に抵抗を感じない人間はいない。石山教授にそれを越えて踏み込ませたもの、そして、「手術」に携わった大多数が「こんなことがあってはならない」と思いつつも、異議を表明することを妨げたものは何だったのか。確かに「医と倫理」の問題だが、それだけではないはずだ。
石山教授は平光吾一教授(解剖学)に解剖室の使用を依頼する際、事情を聴き返されると、「時がそうさせるんです」と答えた。この言葉は一面の本質を衝いている。刻々と悪化していく戦況、日に日に迫る空襲の恐怖、食料欠乏の不安、その中で募る敵への憎悪。「戦争の時代の流れには逆らえない」という気持ちは当時の国民が等しく抱いていただろう。そうした環境で、平常なら医の倫理から「手を出してはいけない」とされる行為も「軍陣医学研究」を名目に堂々と認められる。それが「軍の命令」を言い訳にして禁断の「実験手術」に踏み切らせた最大の動機だろう。
「実験手術」に携わった人たちにとっても「時」が重かった。それに対して、自分の身を守ることと両立させながらでも「おかしいものはおかしい」と、はたして言えるのだろうか。いつの時代のどの場所でも問われる問題のような気がする。
【参考文献】
▽上坂冬子『生体解剖―九州大学医学部事件』(毎日新聞社、1979年)
▽『九州大学五十年史』(1967年)
▽東野利夫『真相―最後の目撃証人の実証記録』(文藝春秋企画出版部、2019年)
▽『東京裁判ハンドブック』(青木書店、1989年)
▽半藤一利・秦郁彦・保阪正康・井上亮『「BC級裁判」を読む』(日本経済新聞社、2010年)
▽水谷鋼一・織田三乗『日本列島空襲戦災誌』(中日新聞東京本社、1975年)
▽丸山マサ美『バイオエシックス―その継承と発展』(川島書店、2018年)
▽『戦争と医の倫理』の検証を進める会『パネル集―戦争と医の倫理』(2012年)
▽宮崎清隆『軍法会議』(富士書房、1953年)


