海軍、七三一、『九研』、陸軍病院でも
実は生体解剖は九大で行われただけではなかった。一部で知られているのは「海軍生体解剖事件」。1944年1~7月、日本海軍の拠点が置かれていた西太平洋トラック島で、海軍病院や警備隊で軍医が、拿捕されたアメリカ潜水艦の乗員らを4回にわたって生体実験した。1つの実験で生き残った捕虜をダイナマイトの爆風実験に使い、なお生きていたので絞殺したというすさまじさ。戦後のBC級戦犯グアム法廷で裁かれ、病院長と警備隊司令ら計3人が絞首刑。22人に終身刑と重労働10~20年が言い渡された。
細菌戦で知られる七三一部隊(関東軍防疫給水部)では、ペスト菌の人体実験と生体解剖をしたことを元少年隊員が証言しているほか、凍傷実験や炭疽菌、流行性出血熱などの人体実験に付随して生体解剖が行われたという。
1980年、筆者が所属していた共同通信社会部で帝銀事件の洗い直し取材をした際、“絶対秘密の研究所”とされた第九陸軍技術研究所(九研、通称・登戸研究所)の元研究員は「中国・南京で中国人捕虜にチフス菌、コレラ菌、炭疽菌を飲ませる実験をしたが、うまくいかず、青酸カリを飲ませたらうまくいった」と証言した。その際、生死に関わらず解剖し、標本にしたという。他の日本軍特殊部隊や特殊機関、さらに日本が旧満州(中国東北部)に設立した満洲医大や各地の陸軍病院でも人体実験と生体解剖が行われたとされる。
「『戦争と医の倫理』の検証を進める会」の『パネル集―戦争と医の倫理』(2012年)によれば、湯浅謙・元軍医は中国・山西省の陸軍病院で「手術演習」と称した人体実験を行ったことを証言している。1987年7月7日付朝日朝刊で湯浅・元軍医は「7回にわたり14人の生体解剖をした。生体解剖は至る所で行われていた」と証言。「看護婦も笑いながら手伝っていた。もし悲壮な感情を表わそうものなら、非国民の烙印を押された」と語っている。
元憲兵の宮崎清隆『軍法会議』(1953年)は、重傷を負った中国側「工作員」の処遇を次のように書いている。
「中には確かに生きていて、病院の解剖台の上に載せられ、軍医の執刀の下に頭の先からメスを入れられ、下腹部まで切開されて、軍医のゴム手袋で種々内臓器官が取り出され、致命傷となった傷跡や、体内に残った弾薬の種類などが調べられる」
「それは医学研究という目的の下で行われるもので、虐殺とか惨殺という考えはみじんもないのだが、後にこれが日本軍の生体解剖とされ、絞首の刑に処された者も多い」
七三一部隊長の石井四郎陸軍軍医中将の人体実験を使った「研究成果」は各方面に影響を与えたといわれる。「海軍生体解剖事件」は陸軍への対抗意識が一因になったとされ、「九大生体解剖事件」は、京都帝大出身の石井中将に対する、京都帝大福岡医科大学から始まった九大医学部側のコンプレックスも人体実験・生体解剖に走らせた要因の1つとされる。
さらに、事件には、日本政府の捕虜への向き合い方が深く関係していた。『東京裁判ハンドブック』によれば、第1次世界大戦を経て「俘虜の待遇に関する条約」(ジュネーブ条約)が締結されたのは1929(昭和4)年。日本政府も調印したが、軍部の反対で批准はせず、太平洋戦争開戦直後の1942年1月、連合国側の問合せに「規定を準用する」と回答した。




