「食肉」は調査員の思い込みからでっち上げられた

 3月11日の初公判から5カ月余り、審理は107日にわたり、出廷証人は133人(検事側99人、弁護側34人)、提出された証拠書類は285通(検事側261、弁護側24)に達した。横浜裁判で最大多数、最長日時を要した。最も重要な点は生体解剖を計画し、これを許可した責任者を解明することだった。

 

 九大石山教授(自殺)が首謀者となり、同大出身の小森見習士官(軍医、福岡空襲で死亡)が橋渡し役を担い、「アメリカ捕虜は生かさぬ」と訓示していた横山司令官(絞首)の許可を得るため、参謀の佐藤(絞首)と他の大佐と中佐(いずれも終身)らに意見を具申し、成功した。この事情に何ら関係しなかったのは軍医部長と副官部長(いずれも無罪)だけで、ほかは捕虜取り扱いの責任を負っている。

 

 捕虜を受け取った九大医学部では第一外科の助教授2人と講師(いずれも絞首)が石山、小森を補佐するため医員を指揮して生体解剖を行い、医務局長、助手(いずれも終身)は海水注射、血液・肺の摘出などに協力した。(弁護側は)捕虜8人の解剖の事実を認めたが、石山、小森だけの責任で、軍の許可は佐藤参謀が命令を勘違いしたため重大な結果を生じた。その他は全員ただ軍の命令を信じて行動したのみと主張したが、それは当時手術を拒否した九大医員の「命令とは信じない」との証言で反証された。

 

 人肉試食事件は5被告ともに「検事側口供書は調査官の強要によりサインさせられたもので、肝を食った事実はない」と証言。検事側証人でさえ「食肉」を否認し、「証拠不十分」と認定された。

 結局、「食肉」は調査官の思い込みからでっち上げられた架空の物語で、暴力的・強圧的な追及に「お坊ちゃん医者」(看護婦の証言)たちがはめられたのが実情のようだ。調査官はその後、アメリカに召喚されたともいわれる。無罪判決には、「天地神明に誓ってわれわれは肝など食していない」という偕行社病院関係者の法廷での絶叫が決定的だったともいわれる。

天声人語は「当時の日本人の精神状態に戦慄を感ずる」と…

 8月29日の「天声人語」は書いた。「科学の名において行われた生体解剖事件が、いま科学を超えた人道の名で裁かれるのを見て、いまさらのように、当時の日本人の精神状態に戦慄を感ずるのだ。人肉試食事件の被告が証拠不十分として無罪になったのは、せめてもの慰めというべきか」。これが国民大多数の感想だっただろう。

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 BC級戦犯裁判に上訴はないが、司令官命令による再審理のシステムがあった。この事件も判決から2年余り後の1950年10月、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥の命令で横山中将以下絞首刑の5人は全員減刑。結局、この事件での死刑はなかった。4カ月前、朝鮮戦争が始まっており、その影響だったことは明らかだが、石山、小森という中心人物が死亡していた影響も大きかった。被告はその後、順次釈放された。