豊臣秀吉の政権は彼の死後、驚くべき速さで崩壊へと向かった。

 歴史学者の本郷和人氏はその遠因には、秀吉の「個」を重んじる能力主義と「武士の常識」との決定的なズレがあると指摘する。本郷氏の最新刊『インテリジェンス関ヶ原』(文春新書)から一部抜粋してお届けする。

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トップを支える人材集団が手薄

 豊臣政権の弱点が「後継者」であることは、当時から誰の目にも明らかでした。秀吉の死の時点で、後継者と呼べるのは6歳の秀頼(ひでより)のみ。秀吉は、一度は関白にも就けた(おい)秀次(ひでつぐ)を切腹に追い込んだばかりか、その一族も根絶やしにしてしまっていました。

 もともと一代にして天下人となった秀吉には、他の戦国大名のような一門や、代々の家臣といった、トップを支える人材集団が手薄でした。秀吉自身、その点は理解していて、後にみるように、養子などによる一門形成を試み、他家の家臣にもためらいなく声をかけ、熱心なリクルート活動を行っています。

 秀吉の一門的存在としては秀吉の生母である大政所(おおまんどころ)の妹の子、つまり秀吉の従弟にあたる福島正則(ふくしままさのり)や、又従弟とされる加藤清正(かとうきよまさ)、正室ねねの義弟である浅野長政(あさのながまさ)が挙げられます。彼らは尾張(おわり)時代からの腹心であるとともに、準一門といってよいでしょう(興味深いのは、関ヶ原の合戦の時点で、彼らがすべて豊臣方には属さなかったことです。徳川家康(とくがわいえやす)の切り崩し工作の凄さを見ることができます)。さらに、ねねの兄の子で秀吉の養子となった小早川秀秋(こばやかわひであき)や、秀吉の養女を正室とした宇喜多秀家(うきたひでいえ)も一門的存在といえ、いずれも関ヶ原で重要な役割を果たしました。

蒲生や丹羽への厳しい処遇

 しかし私には、秀吉という人は根本的には「家」の原理を理解しなかった、あるいは意図的に軽視していた、と思えてなりません。それをよくあらわしているのが、大名の後継問題に対する秀吉の処断です。

 たとえば蒲生氏郷(がもううじさと)。秀吉は氏郷の能力を高く評価し、東国に置いた家康への警戒も兼ねて、会津(いまの福島県西部)92万石を与えます。ところが氏郷が40歳の若さで病死すると、その子どもの秀行(ひでゆき)の所領を、いきなり2万石に減らそうとするのです。「東北統治の(かなめ)となる会津を、13歳の子どもには任せられない」というのがその理由でした。それにしても92万石からいきなり2万石にされてしまっては、「蒲生家」という組織は事実上の壊滅です。このとき、秀吉は石田三成(いしだみつなり)に「諸大名は家の繁栄を願って、秀吉様に従っているのです。家が継承できないとなれば、誰も忠義を尽くさなくなります」と(いさ)められますが、それでも蒲生家の所領は18万石にまで削られてしまいました。

 織田信長(おだのぶなが)時代からの重臣であり、秀吉を引き立ててくれた恩人であるはずの丹羽長秀(にわながひで)の場合も同様です100万石相当の所領を、息子長重(ながしげ)の代になると12万石に減らし、主だった家臣も自分の配下に召し上げてしまいました。

 では秀吉が吝嗇(りんしょく)で、隙あらば家臣たちの所領を減らそうと考えていたかといえば、むしろ逆なのです。これも後に検討しますが、たとえば徳川家康と比べて、秀吉は気前が良すぎるくらいに、味方となった大名たちに所領を与えています。その最大の例が、北条(ほうじょう)氏を滅ぼしたのち、家康に関東250万石を与えたことでしょう。秀吉自身の所領が220万石なのに。家康なら、いやほかのどの大名でも、最大のライバルにわざわざ自分よりも大きな領地を与えるようなことはしません。