「七将襲撃事件」の原因には、豊臣政権内の加藤清正ら「武断派」と石田三成ら「吏僚派(文治派)」の対立があると言われるが、歴史学者の本郷和人氏は「三成は秀吉の身代わりだった」と考察する。その根拠は鎌倉時代の「梶原景時(かじわらかげとき)の変」との類似性である。本郷氏の最新刊『インテリジェンス関ヶ原』(文春新書)から男性武闘集団内部の愛憎の力学を解き明かしたくだりを一部抜粋してお届けする。

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朝鮮出兵で溜まった鬱憤

 朝鮮で苦戦を強いられた武将たちが譴責(けんせき)などの処分を受ける一方、彼らに不利な報告をした軍目付(いくさめつけ)たちには、褒美として新しい領地が与えられました。この軍目付たち、福原長堯(ふくはらながたか)熊谷直盛(くまがいなおもり)は三成の縁族、垣見一直(かきみかずなお)も三成と近しい間柄でした。

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 さらに秀吉は、石田三成に小早川秀秋から没収した筑後国・筑前国(秀秋は越前へ減封)を与えようとします。さすがに三成は辞退しますが、筑前の名島(なじま)城を与えられました。蜂須賀や黒田たちが面白く思うはずがありません。また、三成は、減封によって浪人となってしまった小早川家の旧臣たちを自家に引き受けますが、これも反感の種となったことは想像に難くないでしょう。

 このように、朝鮮出兵を通じて、三成は秀吉の側近としての発言力を強めていきます。派遣軍からの情報を集約し、秀吉に伝え、秀吉の決定を現地に送る。後方支援や戦況の判断についても、三成の存在感は大きなものとなりました。

 三成らは有能な実務家ではありました。難易度の高い海外での補給戦も、朝鮮からの撤兵も、彼らの高度なオペレーションによって可能になったのです。この戦いを早く終わらせたいという判断も間違ってはいなかったでしょう。エリートたるゆえんです。

 しかし、清正ら現地の武将たちが、「老いの進む秀吉の威を借りて、実際には三成らが秀吉政権を動かし、自分たちを陥れているのではないか」と考えるのも、無理からぬことでしょう。

 理不尽な戦争を始めたのも、現地の武将たちに無理難題を押し付けてきたのも、不公平な裁定をくだしたのも、おおもとは三成ではなく、秀吉です。

 しかし、清正らにはこれまで恩顧を受けてきた、絶対的な権力者である秀吉が間違っているとは言えませんでした。しかも、彼らが帰国を果たしたときには、秀吉はこの世の人ではありません。出兵組の鬱憤(うっぷん)を受け止めるはずの相手は、すでにいなかったのです。

頼朝の身代わりとなった梶原景時

 第五話で述べますが、秀吉の死後の慶長4(1599)年、加藤清正、福島正則、蜂須賀家政、黒田長政、藤堂高虎といった、いずれも朝鮮出兵に駆り出された7人の武将たちが、石田三成を襲撃する事件が起こります。有名な「七将(しちしょう)襲撃事件」です。この対立は、しばしば清正ら「武断派」vs三成ら「吏僚派(文治派)」の構図で描かれますが、私は少し違うと思います。

 その根にあるのは、秀吉への不満・不信、あるいは怒りではないか。三成は、秀吉の身代わりにされたのではないでしょうか。

 そう考えるのは、私の専門である鎌倉時代にも、よく似た事例があるからです。「梶原景時(かじわらかげとき)の変」です。