この事件の主人公、梶原景時は、源頼朝の「一之郎党」とも呼ばれた側近中の側近、つまりトップエリートでした。はじめは頼朝と敵対する立場だったのですが、頼朝の鎌倉入り後に御家人となります。関東で大勢力を誇っていた上総広常を討ち、源範頼・義経に従って平氏を倒した功労者として、侍所別当にも就任。頼朝の上洛にも従うなど、重きをなします。
躓の石は、頼朝の朝廷への接近でした。
晩年、長女の大姫の入内工作に熱を入れた頼朝は、御家人たちの不安と不信を招きました。
彼ら東国武士たちは、自分たちの土地を、朝廷などの干渉から守ってくれる存在を求めていたのです。これまで京都に足を踏み入れることなく、東国第一を貫いてきた頼朝が、京都との関係を深めようとしている。御家人たちは強い違和感を覚えますが、それを頼朝にぶつけることはできません。
頼朝の死後、長男の頼家が後を継ぐと、13人の御家人による合議制が敷かれ、景時もその一人となります。しかし、ささいな讒言事件をきっかけとして、景時は66人もの有力御家人たちに弾劾を受けるのです。将軍最側近だった景時は、鎌倉を抜けて、京都に向かう途中、一族もろとも滅ぼされてしまいます。
京都・朝廷と接近した頼朝・景時
私はこの事件の本質は、頼朝に対する、御家人たちの不満と不信だったと考えています。頼朝の死によって、それまで封じ込められていた御家人たちの怒りが、側近であった梶原景時に向かって噴出した。
キーワードは「京都」です。景時は頼朝の上洛に同行し、公家たちと交流を深めました。鎌倉をパージされ、一族で京都に向かったのも、景時と朝廷との近さを示しています。
このように考えていくと、梶原景時は、御家人たちが頼朝への秘められた不信をぶつけるには格好の存在だったことが分かります。
秀吉政権の場合、それは石田三成でした。
東国の御家人が、ひそかに源氏政権に見切りをつけたように、加藤清正や福島正則といった親戚同様の最古参の家臣や、蜂須賀、黒田などの長年にわたって秀吉に付き従ってきた大名と、秀吉との間に亀裂が生じていたのです。それを見逃さなかったのが徳川家康でした。