秀吉の死後、秀吉子飼いの武将たちと石田三成は激しく対立し、その政権はみるみる不安定になっていった。その背景には豊臣政権が抱える構造的欠陥があった。歴史学者の本郷和人氏は、秀吉の成功を支えた「気前の良さ」こそが、政権の不安定と崩壊を招いたと分析する。本郷氏の最新刊『インテリジェンス関ヶ原』(文春新書)から一部抜粋してお届けする。
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石田三成が重用された理由
秀吉は「軍事は数だ」という認識を持っていました。どんなに勇敢な武将でも、10人の敵に囲まれたら倒されます。兵を増やし、鉄砲、弾薬などの武器を大量に購入し、適時適切に配置すること。それが戦に勝つ術であることを知っていた秀吉は、鉄砲や食糧、馬などの調達や補充、連絡手段の確保といった兵站維持に優れた人材を高く評価したのです。
このため秀吉政権では、石田三成のような能吏が重用され、情報収集を行ったり、大名たちに秀吉の意を伝えたり査定したりする立場に置かれました。これが後に大きな禍根を残すことになります。
さらに秀吉は、朝廷の権威も利用しました。小牧・長久手の戦いの後、家康と対峙を続けるなか、天正13(1585)年、秀吉は関白に就任しました。関白は天皇に代わり国政を執行する存在です。さらに秀吉は朝廷と交渉して、大名たちに官位を授けていきます。それによって大名たちを序列化したのです。関白である秀吉が最上位であることは言うまでもありません。
たとえば、秀吉の没年、慶長3(1598)年の武家の官職は以下の通りです。
徳川家康が内大臣。
それに次ぐ前権大納言に前田利家。
権中納言には、織田秀信、上杉景勝、毛利輝元、豊臣秀頼、前田利長。
前権中納言が小早川秀秋、徳川秀忠、宇喜多秀家。
基本的には豊臣政権での力関係に応じて、官職があてがわれていることが分かります。
このように、敵対したライバルと和睦を結び、同盟的臣従者とする手法で、秀吉は天下統一のスピードアップに成功しました。現代のビジネスでいえば、ライバル企業を潰すことなく、社長も替えず社員もそのまま、グループ企業として傘下に入れるようなものでしょうか。このような「気前の良さ」が秀吉の天下取りをスムーズなものにしたといえるでしょう。