昭和期に温泉歓楽街として栄え、「東京の奥座敷」と呼ばれた横浜の綱島。最盛期には数十軒の旅館と数百人の芸者が「酒」と「色」を売り、驚くほどの賑わいを見せていたという。
しかし、昭和東京五輪の年、東海道新幹線が開通すると、徐々に歓楽街としての勢いを失い、今では少しもその気配が残っていない。
街を取り巻く状況が変わり、旅館や芸者が姿を消してしまった綱島。だが、その中でも長く商売を続けたのが温泉施設「東京園」。なぜ「東京園」は“街の変化”に飲み込まれなかったのか。創業者から受け継がれた商売の信条とは――。ノンフィクション作家のフリート横田氏が取材した。(全2回の2回目/1回目から続く)
◆◆◆
今に続く温浴施設「東京園」の存在
綱島には、ほかの歓楽街とは少し違い、今に続く、興味深い存在がひとつあった。
平成期に入っても、「綱島といえば」と話題になるとき名前のあがる、温浴施設「東京園」のこと。ここも、もとは旅館であった。ほかの旅館が消えてしまうなか、近年まで長く商売を続けていた。
「東京園」は、全く色を使う商売をせず、むしろ背を向けることで、商売を存続させたのだった。その歩みを見ることで、“歓楽街の一生”がまた別の角度から照らされてくる。
「綱島で割烹旅館をはじめました」祖父の代に創業
創業者の孫、中村司郎さん。まず、さまざまな話をしていただく前に、ひとこと、釘を刺された。
「ほかの旅館さんのことは、何も申し上げる立場にはないです。ただ自分の家の商売のことだけはお話できます」
一言の意味は、あとから分かることになる。
創業したのは祖父の代だという。ここまで、昭和戦後期、高度成長期ごろまでの綱島歓楽街の歩みをざっと見てきたが、時間を少々巻き戻し、戦前、昭和の頭あたりに話を戻す。
「祖父は故郷長野の師範学校を出て、渋谷に出てきて、江東区の細民街で先生をやったんです。ですが、途中で断念して、綱島で割烹旅館をはじめました」

