「おやじ、女中を一晩出してくれ」仲居による性接待を迫る客を拒絶

 置屋の主人は芸妓を搾取しており、自分たちは毎日、花合戦や賭けごとに日を過ごし、酒と女にウツツを抜かしたりして遊び暮らしながら、抱芸妓には徹底的な搾取をしていることである。その二、三の例は

百円で買った品物は百五十円とつける。
生理休業さすべきものに、盥水をのませて客をとらせたり。
暖かにして寝かすと眠りすぎるからといって煎餅布団に寝かしたり。
食事は一日二食にして、腹が減ったら客をとれと強要したり。
外出には特に厳しい制限を加えたり。
事ある毎に理由をつけては借金を増すことをしたり。

 忠右衛門氏の嘆きが事実とすれば、昭和初期の段階でも、江戸期の遊郭のような、前借金で縛り、「籠の鳥」状態に置かれた女性たちがいたことがわかる。

「おやじ、女中を一晩出してくれ」と、仲居さんたちによる性接待を迫る客もいたが、忠右衛門氏は即座に拒絶。働く女性たちは、仕事にやりがいを見出していた。

 やがて、忠右衛門氏の独特の商法は、綱島の歓楽街で認知され、商売は安定していく。彼は、地元の飲食店の親睦会、睦会の会長に推されるまでになる。

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「綱島の連れ込み屋を、断然引離しての安い宴会などが功を奏して」、「酒の販売量、客数がダントツ」であったため会長になれたのだろう、と本人は述懐している。

写真はイメージ ©moonmoon/イメージマート

「風呂に入れない人が一杯いたんです」旅館から大浴場へ転業

 戦中、「東京園」は、東芝の軍需工場の工員寮として徴用されてしまうが、終戦し、忠右衛門氏の息子・忠相氏が昭和23年に復員すると、一転して、大衆浴場として再出発した。

 しかしなぜ突如、旅館から浴場へと転業したのだろうか。忠相氏の息子、司郎さんは言う。

「そのころ、風呂に入れない人が一杯いたんです。でも旅館だと値段が高くて入れないですよね。建物はもうボロボロでしたが、それでもやってみると、大勢の人が入りに来てくれました。正直、風呂屋っていうのは、当時、社会的ステータスは高くはありませんでした。駅前に1000坪あるのに風呂屋をやるなんて馬鹿かと言われましたがね(笑)」

 忠右衛門氏以来の、公共心といっていいような精神が、息子の代になっても受け継がれているのを筆者は感じた。司郎さんは笑いながら続ける。