昭和期に温泉歓楽街として栄え、「東京の奥座敷」と呼ばれた横浜の綱島。最盛期には数十軒の旅館と数百人の芸者が「酒」と「色」を売り、驚くほどの賑わいを見せていたという。

 しかし、昭和東京五輪の年、東海道新幹線が開通すると、徐々に歓楽街としての勢いを失い、今では少しもその気配が残っていない。

 綱島はどのようにして、一大温泉歓楽街として栄えたのか。当時の街にはどのような人が訪れていたのか。そしてなぜ「消えた歓楽街」となってしまったのか――。ノンフィクション作家のフリート横田氏が取材した。(全2回の1回目/2回目に続く)

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東横線が走る綱島の風景。かつては一大歓楽街が存在した(筆者撮影)

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「東京の奥座敷」と呼ばれた綱島

 編集部からの依頼。「消えた歓楽街」について書いてほしい――。街の名を聞いて、なるほどと合点がいった。綱島である。横浜市港北区にある綱島駅周辺は、東急東横線沿いの街らしく、いまは落ち着いた住宅街が広がっている。

 かつてここに遊興の一角があったことはほんのりとは知っていたが、いまは少しもその気配は残っていない。たしかに、煙のように消えてしまった。昭和期に栄えた“歓楽街の一生”を追ってみたくなり、さっそく調査に入る。

 まず、半世紀前の雑誌記事によれば、かつては「東京の奥座敷」と呼ばれたとあった。「この狭い土地に、検番(芸者の取次を行う)が二つ。置屋が三十余軒。芸者が四十人」と、70年代半ばにはまだ、おどろくほどの賑わいだったことが分かる(「週刊新潮」1975年2月20日号)。

ラジウム鉱泉の発見を機に温泉街として発展

 記事には旅館の数も「四十軒」とあり、さらに昔は、100軒にものぼっていたことが記されていた。この旅館街のはじまりは、大正にさかのぼる。

 大正3年(1914)、綱島から鶴見川を渡った付近で護岸工事が行われ、その折に住民が井戸を掘るや、赤い水が噴き出し、これを成分分析したところ、良質なラジウム鉱泉であることが判明したという。いわゆる、「黒湯」だ。やがて大綱橋のたもとにも井戸が掘られ旅館が建てられ、温泉郷としての形ができていった。