昼間は「不釣り合いなカップル」の利用が…
新幹線開通後、10年ほどあとの雑誌記事がある(「週刊サンケイ」昭和50年(1975)2月27日号)。記事では、売春防止法違反によって芸者置屋、芸妓組合、旅館7軒が捜索され、置屋の女将が逮捕されたのを伝えている。さらに、旅館の変質にも触れている。
ほとんどが料亭と旅館の兼業であるため、昼間は何やら「不釣り合いなカップルの利用」いうなれば「連れ込み宿」(現在のラブホテルに近い)として存続してきていた。中森さんが言っていた「ご同伴」のイメージは、この時期のことだろう。同記事はさらにこう続く。
“芸のない芸者”がかなりいましてねえ。すなわち、アレを売るしかない。
芸者衆の商法についてもストレートに記している。一回の遊興が、この時代は2万円であったという。
数百人を誇った綱島芸者も、最後は「15人いるかいないかになった」
筆者は、戦後に栄え、やがて消えていった花街をいくつか追ったことがあるが、似た筋道を辿るケースをいくつも見た。繁栄しているときは、「酒」「色」の均衡がとれている。
酒を飲む場、色を売る場が実質は同じであっても、オモテからは分かれて見えるようにしてあったり、あるいは実質が分からないように、様々な儀礼や制度、しつらえで偽装されていた。
しかし街をとりまく状況が変わり、勢いを失うといっきに、あからさまに色を前に出すようになる。商売が先鋭化する。しかし裏腹に商売は細っていくのだ。
数百人を誇った綱島芸者も、最後は、「年配の人が、まあ15人いるかいないかになった」(打越さん)。旅館も、新吉田地区などにある会社や工場の宴会場、麻雀部屋として使われ、ほそぼそと営業を続けたが――。やがて、全てが姿を消した。
だが綱島には、ほかの歓楽街とは少し違い、今に続く、興味深い存在がひとつあった。
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