昭和10年ごろには四十余軒の旅館が並び、大勢の芸妓が呼ばれるように
大正15年(1926)に東急(当時は東京横浜電鉄)が東横線を通し、綱島温泉駅(現綱島駅)が設けられ、昭和2年(1927)になると、東急も駅前に直営の温泉浴場を開いた。
昭和10年ごろには、すでに四十余軒の旅館が並んでいたようである。そこには大勢の芸妓が呼ばれるようになった。低湿地の田園地帯に、帝都から数十分で行ける一大温泉歓楽街ができあがったのである。
ところが、戦争の時代に突入。温泉など時節柄よろしくないと休業を命ぜられ、旅館は兵隊や女子挺身隊の寮となり、また駅名も綱島温泉駅から綱島駅へと改名させられた。そして敗戦。
この終戦直後の綱島の様(さま)を覚えている人がいた。
終戦直後は米兵相手の慰安所があった
「綱島街道をジープが走っていたのと、東の川岸のあたりに黒人兵のための慰安施設があったというのを聞いています」
長年この地に住む中森伸明さん(昭和20年生まれ)は言う。
慰安施設――。これは少々解説がいる。
ポツダム宣言を受諾した翌月、昭和20年9月、アメリカ陸軍第8軍が日本への進駐を開始し、横浜や横須賀に多数の米兵が上陸してきた。日本政府は、国家崩壊直後というのに、彼らのための慰安施設をすぐさま準備した。
押し寄せる若い兵士から日本の婦人を守るための、いわゆる「性の防波堤」を作ろうとしたのだ。戦時中、日本軍は占領地域の女性たちに非道の限りを尽くしている。アメリカもまたそうするかもしれないと恐れたのだろう。
芸妓、遊郭の娼妓たちを中心にした女性たちが、その任にあてられた
終戦後わずか数日で、内務省が主導し、全国の道府県知事と警察長官に、慰安所設置が命じられた。神奈川県内でも、横浜や横須賀の芸妓、遊郭の娼妓たちを中心にした女性たちが、その任にあてられたのだった。
警察みずからが慰安施設作りを進め、男たちの前へ差し出されバリケードとなる女性と、後方へ逃がす女性とを分けたのである。
綱島にも、規模は小さいながらもそれはあったのだ。
『神奈川県警察史〈下〉』によれば、昭和20年の末、「神奈川貸座敷」(組合名だろう。もとは反町にあったが、戦災で焼失し、綱島へ移転したと記載あり)の営業者は2軒、接客婦数は11名、一回の遊興で20円または1ドル、とある。
「貸座敷」は、娼家を指す。階級や人種で施設を分けることもあったから、綱島は黒人兵士用であったようだ。

