翌21年3月には、性感染症が蔓延
翌21年3月には、性感染症の蔓延によって、どの施設も一斉に「オフリミッツ」(進駐軍将兵の立ち入り禁止)となっているから、中森さんはその間の風聞を覚えていたと思われる。
慰安というのは、酒を飲ませて宴会をしたりダンスをして終了、というわけではない。「酒」と「色」とはこの時代、混じっている。
あるいはストレートに売春のみする、ということのほうがむしろ一般的であった。綱島の旅館街は、そうした性質や機能をもともと持っていたから選ばれたのだろう。
他地域の慰安施設が、オフリミッツ以後に「赤線」(半ば当局公認の売春地域)となっていたことを考え合わせると、米兵の去った綱島の温泉旅館街も、赤線に準ずる機能や風土を孕み持っていたと考えるのが自然ではないだろうか。
お忍びの客、遊興客、芸者衆が行き交った高度経済成長期
中森さんは、やや時代がくだって、高度成長期ごろの旅館街のイメージについても端的な言葉で教えてくれた。
「まあ、綱島温泉にはね、『ご同伴』の利用、お忍びで来る人が多かったわけです」
すでに死語に近いが、逢引(あいびき)でやってくる男女が多かった。そして大挙訪れていたのは、遊興したい男たちである。彼らを待ち受けて、大勢の芸者衆が街を行き来していた。
旅館「梅島館」を先代が経営していた打越元さん(昭和15年生まれ)は、その様子を覚えている。
「田んぼしかないところに旅館街ができたのです。検番も2つあって、置屋(芸者置屋)も多かったですよ。三味線の音もよく覚えていますし、芸者衆が手ぬぐいを配っていたのなんかも覚えています。ああそう、刃傷沙汰もあってね、帳場の前で犯人をつかまえたこともあったなあ」
「色」を前に出した歓楽街への変質
男女の思い、欲望の交錯する一角であった。しかし、街は変質してくる。
昭和39年(1964)、昭和東京五輪の年、東海道新幹線開通。人々の行動範囲が格段に大きくなってきた。東京至近の温泉地より、もう少し遠く、熱海あたりまで足をのばす人が増えてきたのだ。
徐々に、前述の人々に素通りされるようになってきた綱島温泉は、より売るものを前に出していく――。

