「女性を売る仕事だけはすまい」

 細民街とは、いうなればスラムである。創業者・中村忠右衛門氏(照翁とも)は『夢痕録』という私家版の自叙伝を残している(昭和30年5月1日発行)。これによれば、忠右衛門氏は昭和初期に教員をしていた。生徒の父親たちは博打で身を持ち崩し、母は身を売り、似た境遇が親から子へと連鎖していく様を目の辺りにした。

 教員としてこれを救いきるのは難しいと感じたものの、どうすることもできない。せめて自分で商売を興すときには、女性を売る仕事だけはすまい、これだけは腹を決めていた。こうも記している。

細民の子女保護を眼目
女どもを集めて色仕掛のサービスは絶対にできない
色気の加わらないサービスガール、家族連れで来ても気持のよい憩いの場所にしたい

 昭和7年(1932)、忠右衛門氏は綱島の駅前、東急経営の温浴施設を買い取り、「八百三拾坪、借地四百坪、合計千二百三十坪、建物の総坪数は五百六十坪」という堂々たる旅館を開いた。経営スタイルは独特であった。

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当時の「東京園」の一角(提供:中村司郎さん)

「色」を楽しめないことに、客から不満の声が

 まず、宴会をやるにしても他店の半額程度の設定、仲居がチップをもらう場合も、1割まで。余計にもらうと即刻首となった。ところが、というより案の定というべきか、館内で、「色」を楽しめないことに、客から不満の声があがってしまう。

 館内へ芸者の出入りはできたが、旅館側からは金銭の支払いはせず、客が宴席に呼び入れるのを黙認するだけ、という状況だったようだ。しだいに芸者衆からもそっぽを向かれ、同業の旅館経営者からもいい顔をされなかった。

芸妓の玉代を払わないので、置屋組合から芸妓の出入りを差し止められるのも当然であった

 忠右衛門氏は、苦笑を書き残している。ついには、宴会がはじまっても芸妓がひとりも来ない、「箱止め」されるに至った。忠右衛門氏はそれでも商法を変えなかった。理由は、芸者たちへの搾取は激しいものがあり、怒りを感じていたからであった。前掲書から引用する。