「昔は石炭で風呂を沸かすんですね。子安まで父(忠相氏)と行って、海没炭というのを買っては担いで来ました。あのころ、それを仕切るヤクザがいたりね」
石炭運搬船へ荷役をするとき、一部の石炭が海へ落ちてしまう。これは海没炭と呼ばれ、値段は安価だった。ただし、土地の顔役と渡り合って買い入れねばならなかった。入浴代金を安く抑えるための努力だった。
東京園の敷地が開発予定地に…2015年に休業したワケ
前述通り、昭和東京五輪のあとの頃から、「ご同伴」の人々も、芸者をあげて遊興する人々も、綱島を素通りして熱海方面に行ってしまうようになり、旅館は次々に廃業、周囲は宅地化してきた。
それでも東京園は、バブル期をこえて、火災に見舞われて建て替えをしてでも、憩いの場として営業を続けた。畳敷きの休憩所では、黒湯につかったあとの老若男女が、足を投げ出してゆったり涼み、演芸ステージではカラオケを楽しむ風景が毎日見られた。
だが、街は変化の速度をゆるめない。
綱島駅前が鉄道会社によって再開発されることとなると、東京園の敷地は開発予定地にかかってしまった。ついに2015年、休業。瀟洒な住宅街に残った、ただひとつの温泉地のあかしが、消えた。
「風呂屋をやらせてくれ」10年以上の休業を経て、営業再開の動きが出てきた
ところが、話はここで終わらなかった。10年以上の休業を経て、営業再開の動きが出てきたのだ。この手の施設が休業後に復活するのは稀ではないだろうか。いま、3階建てのテナントビル建築を進めており、その隣で営業再開するのだという。
なるほどと思ったのは、スーパー銭湯にはせず、地元の人が入れるよう、銭湯(神奈川県内の共通料金・大人570円)での再開を目指していること。やはり、公共心は引き継がれている。
今度は、司郎さんの息子さんが運営を担うそうだ。多くの業態で後継者不足となっている時代に、よくぞ銭湯の跡継ぎができたもの。司郎さんは穏やかに微笑んだ。
「子どもに、ただ跡を継ぎたい、って言われていたら断ったと思います。でも『風呂屋をやらせてくれ』って」
この一言で、温泉地は復活したのだった。
街から歓楽の灯は消え、ふたたびともることもないだろう。筆者は日頃、盛り場の戦後史を追っている。いつも、消えていくものの寂しさと、消えることの妥当性を同時に感じるのだが、「街がのっぺらぼう」になるつまらなさを、なによりも強く感じていた。
だがこの街は、かろうじてそうはなりそうにないことに、他人事ながら、どこか安心するのだった。
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