時代とともに教科書も変わる。かつては1192年だった鎌倉幕府の成立は、いまでは1185年に。しかし、本郷教授は「いや、本当の成立は1180年」だったと論じる。その根拠は? そして、その意味とは?
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なぜ頼朝がリーダーとなれたのか?
十四歳から二十歳までを伊豆で流人として過ごした頼朝は領地も持たず、親や兄弟も死んだり離れ離れになっていて、家来もほとんどいないという状態でした。こんな無力な頼朝がなぜ東国武士のリーダーとなれたのでしょうか。
従来の見方では、「頼朝が源氏の御曹司だったから」ということになります。つまり、家柄、ブランドが決め手である、と。確かに昔も今もブランド力は無視できないパワーですが、それだけで片づけてしまっていいのでしょうか。というのも、これも後にあらためて論じますが、頼朝の死後、政権中枢を担った東国武士たちは、二代将軍頼家、三代将軍実朝が死に追いやります。それだけでなく、頼朝に繋がる源氏の一族を次々と殺していく。もし源氏ブランドが武士のリーダーに不可欠な要素だとしたら、なぜこんなことが起きるのか説明がつきません。
東国武士たちからみると、頼朝は担ぎやすい存在だったことも確かでしょう。東国武士が結集する際に、たとえば上総氏や千葉氏など大豪族がトップに立とうとすると、その時点ですでに政権抗争が生じてしまう。特に挙兵から鎌倉入りあたりでは、家柄はいいが、自前の武力をほとんど持たない頼朝は、それらの豪族を束ねるのにちょうどいい存在だったと思われます。
私が重要だと考えるのは、頼朝軍が戦勝を重ねたあと、ことに富士川の戦いで平家に勝利した後です。頼朝は、その勢いで京都に進軍しようとしますが、有力豪族である上総広常や千葉常胤、三浦義澄らが「そのほかの驕者、境内に多し」、すなわち「東国にはまだ、常陸の佐竹氏をはじめとする反頼朝の勢力も少なくない。西を目指すのは、そうした勢力を討伐してからだ」と反対します。
頼朝は上総らの要請に応えることを選びました。彼ら東国武士が求めていたのは、平氏を打倒することでも、ましてや京都に上って朝廷に仕えることでもありませんでした。あくまでも東国の平定と、土地の安堵。これに応えることが、自分の使命であると自覚した。言い換えれば、頼朝はここで東国武士たちのニーズをはっきりと見極めたのだと考えます。もっとも先にも述べたように、頼朝の本当の手勢と言えるのは北条氏くらいで、大軍勢を率いる上総らに離反されたら、とても京都進軍どころではなかったのも実状でしょう。