そうした状況をまったく理解できず、後白河上皇の罠にまんまとはまり、勝手に官位を受けて、頼朝を激怒させたのが源義経です。ここからが頼朝と後白河の外交戦です。後白河上皇は義経に頼朝追討の院宣を出しますが、それに失敗すると、今度は頼朝が北条時政を千騎の兵とともに上京させ、後白河上皇に院宣を撤回させます。加えて義経追討の名目で、全国に守護を、そして荘園や国衙領に地頭を設置する権利を認めさせるのです。この守護・地頭の設置により、東国のみならず、全国に御家人を送り込むことが可能になりました。一一八五年のことです。
頼朝はこの義経追討に伴い、義経をかくまったとして、奥州藤原氏をも攻め滅ぼします。そして藤原氏の領地を自らの領地に加え、御家人に分配することで、東国統治の基盤を固めていきました。
後白河上皇との外交戦はこの後も続きますが、ここでみておきたいのは、一一九〇年、千騎の軍勢とともに頼朝が上洛したときのことです。東の権勢者となってはじめて後白河と対面した頼朝は、「君の御事を私なく身にかえて思候」(自分の身に代えても、後白河上皇のことを大切に思っています)と語ったと『愚管抄』に書かれていますが、私が注目するのは、その次の言葉です。頼朝は、「頼朝様は朝廷のことばかり気にしているが、わたしたち東国だけでやりたいようにやればよい」と発言した上総広常を、梶原景時に命じて殺させた、と後白河上皇に伝えます。それくらい自分は朝廷に恭順の意を尽くしている、というわけですが、そこには言下に二つのメッセージが込められているのではないか。ひとつは「大豪族である上総氏のトップさえ、自分の一存のもとに殺させ、しかも何の揺らぎも見せないほど、私は東国において権力を確立している」ということ、もうひとつは「私が治めているからこそ東国は落ち着いているのであって、自分がいなくなると、荒々しい東国武士たちを抑えきれなくなるよ」という脅しです。義経追討をめぐって北条時政を派遣したときもそうでしたが、朝廷との重要な交渉では必ず千騎という、当時としては大軍を伴っているのも、頼朝が自分のパワーの源泉が武力であることをよく知っていた証でしょう。
このように、頼朝には二つの役割がありました。ひとつは「東国の在地領主たちに土地を安堵する」ことです。さらに平氏や藤原氏との戦いで獲得した領地を配分することで、東国武士たちからの支持はますます高まっていきます。もうひとつは「それを既存の”政府”である朝廷に認めさせる」ことです。この二つが可能なのは、頼朝だけだった。それが「なぜ頼朝が東国武士のリーダーたりえたのか」という問いに対する答えとなります。