いずれにせよ、この東国武士の期待によく応えることができたのは、頼朝の優れた政治力だったといえるでしょう。頼朝は、東国武士たちの土地支配を保証するとともに(本領安堵)、ともに戦い、敵対勢力から奪った土地を褒美として適切に配分します(新恩給与)。東国武士たちは、それによって生じた頼朝への「御恩」に応えるために、御家人として命令に従う(奉公)。たとえば合戦に参加して、命を懸けて戦う。これが頼朝と東国武士との間に結ばれた主従関係でした。

 頼朝が他の東国武士たちと一線を画していたのは、早くから大江広元や三善康信ら京都の下級貴族を、文官としてスカウトしたことです。この時代、東国武士の大半は文字が書けませんでした。朝廷では当然、文書による行政が行われていますから、事務能力では雲泥の差があったといえるでしょう。頼朝は、京都から中原親能やその弟、大江広元らを連れてきます。さらに伊豆に流されていたころから頼朝に京都の情勢を伝えていたの三善康信もやってきて、行政の業務に従事しました。彼らによって、頼朝政権は土地の権利の確定や配分などを行う事務能力を備えることができたのです。

 こうして東国において、土地支配を、誰よりも迅速に効率よく実行できる権力が生まれます。頼朝を軸に結束した「武士の、武士による、武士のための政権」、これが鎌倉幕府でした。

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伝源頼朝像

後白河上皇との外交戦

 頼朝が東国において武士のリーダーたり得たもうひとつの理由として、朝廷との交渉力が挙げられます。先にも述べたように、東国武士の土地を安堵するには、既得権益を主張する朝廷と渡り合い、折り合いをつける必要がありましたが、東国において、そのような外交力を持っていたのは、京都生まれの京都育ちで人脈もある頼朝くらいだったのです。

 頼朝は富士川の戦いのあと、十年間、一度も京都に足を踏み入れることなく、東国を治めることに専念します。御家人に対しても、朝廷から官位をもらうときは、必ず自分を通すように厳命し、勝手に朝廷からの任官を受けてしまった御家人に対して、「もう東国(具体的には美濃国墨俣から東)に戻ってくるな。帰ってきたら死罪にするぞ」と脅すなど、徹底して朝廷に近づけないようにしていました。