豊臣システムの権力の源とは?
しかし、それは他の武将たちの認識とは大きく異なっていました。私はそれこそが「七将襲撃事件」の真の原因だったと考えます。
朝鮮出兵において、なぜそれぞれ一国一城の主でもある大名たちが、三成たちの指示に従ったのか?
それは三成たちの有能さに圧倒されたから――ではありません。それが秀吉の命令だったからです。絶対的な権力者である秀吉がバックにあるからこそ、三成たちのオペレーションは回っていたのです。
では、秀吉の「権力の源」とは何だったのか?
関白の地位などは、秀吉の権力のひとつの「表現」に過ぎません。秀吉の「天下」を支えたのは、山崎の戦い、賤ヶ岳の合戦にはじまり、九州征伐、小田原征伐、奥州仕置に至る「戦争に勝利すること、勝利した実績」でした。ライバルたちを武力で従えることが、武家政権における本質的な権力の在り方なのです。
さらに秀吉は、その軍事力を背景にして、和睦などの外交力、他の大名を臣従させる政治力を存分に発揮しました。単に戦いに勝つだけではなく、その後、秀吉に従うことのメリットを示したのです。
「豊臣システム」は、こうしたリーダーとしての秀吉の総合力があって、はじめて機能していたといえるでしょう。
たとえば朝鮮出兵において、加藤清正や黒田官兵衛・長政らが処分を受け入れたのも、三成らの報告や裁定に納得したからなどではなく、秀吉の権力に従っているからです。
同じことは、秀吉政権の末期に出された「御掟」にもいえます。掟を定め、それに従わせる主体は、あくまで秀吉です。秀吉の死によって、その「従わせる力」は確実に弱まります。「御掟」を無視した家康の婚姻外交は、まさにその「空白」をついたのです。
おそらく三成たちは「御掟」や「起請文」によって、システムを運営し続けようと考えたのでしょうが、うまくいきませんでした。法や契約は、違反に対してペナルティを与えられるパワーに裏打ちされて、はじめてその効力を発揮します。三成たち奉行衆は、そのパワーを有していませんでした。
皮肉なことに、五大老五奉行制において、秀吉の死によって生じた「権力の空白」をかろうじて埋めることができたのは、徳川家康、そして前田利家という二人の大老の存在でした。
そのパワーの源は、「秀吉が遺言で二人に後事を託したから」ではないでしょう。彼らの武力、政治力といったリアルなパワーそのものが、秀吉亡き「天下」の支えとなる、そうみんなが期待したからです。
そう考えると、前田利家の死後、ただちに「七将襲撃事件」が起きたのは偶然ではありません。「天下の支え」の一方が失われたために、もともと不安定だった秀吉なき「豊臣システム」が大きく揺らいだのです。