一方、『吾妻鏡』はこう記す。

「自豆州御旅居奉昵近(中略)去春之比御密通」

 豆州(伊豆/鎌倉に入る前の頼朝の本拠地)に御旅居(御所/この場合は御所に住む人物・頼朝を指す)がいた頃からの昵近(側にいた人)であり、寿永元年(1182)の春から密通していたと、頼朝とのなれ初めを記す。

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 整理すると1180~1182年頃、下総か伊豆で出会い、頼朝の愛人となったということだろう。しかし、それ以外の出自は判然としない。また、「顔形之濃かなるのみにあらず心柔和」──顔立ちがくっきりとした美人であるだけでなく心も柔和と、誉めちぎっている。正式史書である『吾妻鏡』が、御台所の政子をさしおいてここまで書くのは腑に落ちないが、要は頼朝に選ばれただけのことはある美女だった、といいたかったのだろうか。

「都ではこうやって復讐する」

 政子に亀の前の一件を告げ口した北条時政の妻・牧の方は、継室(後妻)なので政子にとっては義母にあたる。生まれも育ちも京の都だったことから、貴族の間に後妻打ちの風習があることを知っていた。夫に愛人がいることを知って狼狽えるばかりの政子に、「都ではこうやって復讐する」と唆した。嫉妬に燃える政子は、その話に乗った。

写真はイメージ ©getty

 もっとも家屋・家財道具一式を徹底的に破壊する苛烈すぎる後妻打ちは、都でもあまり例がなかったようだ。

次の記事に続く 「家臣に八つ当たり」「地元に帰っていく家臣も…」源頼朝の女癖の悪さが招いた「残念なその後」