「大根売りの妹」とも噂される低い身分から、3代将軍・家光に見初められ大奥の頂点へと登り詰めた桂昌院。「玉の輿」の語源にもなったシンデレラは、なぜ息子の5代将軍・綱吉の時代に「悪名高き毒婦」として民衆の不満の矛先となってしまったのか? ライターの小林明氏の新刊『毒婦の日本史』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/続きを読む)
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八百屋、畳屋…いったい何が真実なのか
寛永16年(1639)頃、徳川3代将軍・家光の側室だったお万の方の部屋子(世話係)に、美しい娘がいた。幼少期に家光の乳母を務め、江戸城大奥の創設者でもあった春日局がその姿を目にし、大奥女中として教育した。やがて娘は家光に見初められ、正保3年(1646)に子を産んだ。子は成長し、5代将軍・綱吉となった──。
絵に描いたようなサクセス物語の主人公の名はお玉。のちに大奥で権勢を振るうことになる桂昌院である。
お玉の出自は諸説ある。よく知られているのは「八百屋の娘」というもの。この説の由来をたどっていくと、桂昌院が亡くなった宝永2年(1705)からほどなく成立した『元正間記』に出発点がある。そこには「大根売りの妹」と記されていた。
さらに約半世紀を経た頃には、お玉は京都の八百屋・仁左衛門の娘だったが、父が死去したため母が本庄宗正という下級武士の後妻におさまった。そして、本庄宗正が前述の家光側室・お万の方に縁があった関係で、大奥に奉公する──という話を掲載した本が出た。それが安永10年(1781)刊の『玉輿記』で、こうした書名から女性のシンデレラ・ストーリーを指す「玉の輿」の言葉が誕生したという。
一方で、江戸前期の文筆家・戸田茂睡(1629~1706)が著した日記形式の随筆『御当代記』には、「畳屋の娘」と書かれている。おそらくこれは、江戸では「畳屋」、京都では「八百屋」など、異説がさまざま流布していたためだろう。どちらにせよ、桂昌院が低い身分の出身という風聞は、世間に定着していたと考えてよい。
