「生類憐れみの令」の黒幕=桂昌院は事実なのか?
元禄14年(1701)3月14日、江戸城で浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかる松の廊下事件が起きた。赤穂浪士討ち入りのきっかけとなった刃傷沙汰である。
事件当時、綱吉は桂昌院が朝廷から従一位の官位を賜る工作中だった。その勅使を饗応する大切な役目を担っていたのが、上野介と内匠頭だった。そんな2人が失態を犯せば、綱吉の面目は丸つぶれだ。
従一位は女性に与えられる官位としては最高位で、過去、徳川の女性で賜ったのは家光の母・崇源院(お江の方)しかいない。その栄誉に、綱吉は自分の母に浴して欲しかったのだろうが、世間は母親べったり(つまりマザコン気質)の綱吉を嘲笑し、桂昌院にも批判の目を向けた。
綱吉は「生類憐れみの令」を発した犬公方でもある。この悪名高き法令の黒幕も桂昌院と噂された。
綱吉と側室との間には徳松という名の男児がいたが、数え5歳で夭折している。そこで桂昌院は、新たな孫を授かりたいと願い、僧侶の祈祷にすがったという。僧は、綱吉に殺生を禁じるよう勧めれば、君主としての徳が増し、世継ぎにも恵まれると桂昌院に説いた。それを鵜のみにし、息子に動物を大切にせよと、半ばそそのかした――「生類憐れみの令」誕生の背景には、桂昌院のそうした言動があったとされる。
「生類憐れみの令」は、最新の研究では「生命あるものすべてに慈悲の心を持つ」ことを趣旨とする仁政と見る向きもあり、一概に悪法とは言い切れないようだが、民衆にとって迷惑だったことに違いはない。何しろ大規模な犬屋敷を建て野犬を保護するのだから、それだけで費用は膨大になる。
浪費に対する民衆の不満が綱吉と桂昌院に向いても不思議ではない。
もっとも、桂昌院が綱吉をそそのかしたというのはあくまで当時の噂で、確証はない。
