息子の5代将軍・綱吉は母思いのマザコン
3代将軍・家光には5人の男児がいた。うち2人は早逝。残った3人のうちの1人が4代将軍・家綱となり、2人目の綱重が甲斐国(山梨県)甲府藩主、もう1人の綱吉は当初、上野国(群馬県)館林藩主だった。
この3人はそれぞれ母が異なる。家綱を生んだのは家光側室・お楽の方、綱重も側室・お夏の方。そして綱吉は側室・お玉の方、のちの桂昌院が生んだ。
4代家綱は、家光の長男でありながら影の薄い存在として語られがちだ。将軍の地位に30年近く就いていたにもかかわらず、老中らの進言に「その通りにせよ」といってばかりの「さようせい将軍」と揶揄されていたらしい。正室と2人の側室がいたが、子はできなかった。正確には側室が2度懐妊しているが、いずれも死産だった。
延宝8年(1680)、家綱は弟・綱吉を江戸城に呼び、「自分には子がいないので養子になるように」と命じ、綱吉を自分の後継者つまり5代将軍に指定し、同年5月8日に死去した。
綱吉の5代将軍就任にあたっては、幕府内でも議論があったようだ。
前述の家光の子の3人は、年齢順に家綱→綱重→綱吉。綱重は家綱よりも先に病没したが、息子・綱豊を残していた。つまり、家綱の後継者候補は、綱吉と綱豊の2人がいたわけだ。
しかも綱豊は当時、すでに19歳だった。成人しているのだから、将軍就任の優先順位は綱豊が上だったと考えられる。それにもかかわらず綱吉が将軍に就いたのは、当初は中継ぎであったことを意味していよう。先代の弟が中継ぎとして登板するのは、当時の慣例法『武家相続法』によく見られるケースだった。
ところが綱吉は結果として長期政権となる。綱豊が6代・家宣として将軍に就くのは、約30年後のことである。
一方で綱吉の母・お玉の方(桂昌院)と、綱豊の祖母・お夏の方は犬猿の仲といわれ、先に綱吉、のちに綱豊(家宣)という順番は、双方の母の対立を回避する折衷案だったという俗説もあった。お玉の子を先に将軍に就け、次にお夏の番──今風にいえば win-winということだったのだろう。
こうして誕生した綱吉政権だが、さまざまな厄介事が降りかかり、その度に桂昌院の評判は落ちていった。