名前に“西”がついているのに実際は日暮里の北にある……西日暮里駅はなぜそう名付けられたのか? 鉄道事情に精通するライターの小林明氏の新刊『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

昭和30年代、日暮里駅を通る蒸気機関車(荒川区提供)

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関東大震災の避難民であふれた日暮里駅

 日暮里駅と西日暮里駅の駅間距離は約500メートル。徒歩7分ほどで、山手線の駅間距離では最も短い。ともに日暮里の地名を冠する双子のような存在だ。

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 先行して開業したのは日暮里駅で、明治38年(1905)4月1日に誕生した。当時は、茨城県土浦からやって来て、三河島駅を経由する貨物列車の停車駅だった。この路線が常磐線の前身で、運行は民営の日本鉄道だった。『鉄道要覧』では現在も常磐線の起点とされている。

 日本鉄道が国有化された3年後の明治42年(1909)からは東北本線に属したが、2つ隣りの上野駅でも東北本線に乗り換えることができたため、戦後、東北本線は日暮里駅を通過するようになり、設置していた専用ホームも昭和52年(1977)、東北新幹線の線路を通すため撤去された。

 それでもなお、現在も正式には東北本線の駅である。日暮里駅は2つの悲劇を通じて、歴史に刻まれている。大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災で上野駅が焼失したため、2つ先にあった日暮里駅に東北方面へ避難しようとする人々が大挙して押し寄せ、パニックとなった。当時の様子は映像でも保管されている。

 もう1つは昭和27年(1952)6月18日、乗り換えのために設けられていた跨線橋(線路をまたぐ橋)が混雑の重みに耐えきれず破損。数十人が落下し、死者8人を出す惨事となった。

 この惨事の後、混雑を緩和するため、線路脇にあった谷中霊園の下の崖を削ってホームを新設する工事を行った。その模様を伝える写真も、荒川区に保管されている。

転落事故の教訓を活かして、昭和29年(1954)からホームの新設工事を行った(荒川区提供)

なぜ西日暮里駅が生まれたのか?

 一方の西日暮里駅の開業は遅く、昭和46年(1971)4月20日。その2年前に開業した帝都高速度交通営団(現在の東京メトロ)千代田線西日暮里駅に接続するための新駅だった。私鉄に接続する目的で開業した山手線の駅は、西日暮里だけである。

 このため外に出るための改札口はひっそりと1カ所あるのみで、多くの乗客は、地下の乗り換え口を通じて東京メトロ千代田線のホームと行き来している。

 面白いのは日暮里駅の北に位置しているのに、名称が「西日暮里駅」となったこと。この理由は、日暮里駅を境に東が荒川区東日暮里、西が同西日暮里という町名になっており、駅を建設した番地が西日暮里5丁目だったからである。

 西日暮里駅は日暮里─田端約1.3キロメートルの間に新たに誕生し、日暮里からは約500メートル、田端からは約800メートルである。日暮里─西日暮里間は山手線最短、西日暮里─田端間は4番目に短い。ちなみに短い区間2位は上野─御徒町の600メートル、3位は神田─秋葉原、巣鴨─駒込、新宿─代々木で、同じく700メートルである。