日暮里の語源は「新堀」か?

「日暮里」の地名が、風光明媚な情景にみとれているうちに日が暮れていく「日暮らしの里」に由来するといわれるようになったのは、江戸時代の享保~寛延(1716~51)の頃だが、実は文安5年(1448)の『熊野神領豊嶋年貢目録』に「三百文 につほり妙円」の文字があり(図録荒川区史)、これが文献上の初出だ。おそらく武蔵国豊嶋郡の南東部(現在の荒川区のあたり)に熊野大社への信仰が根づいており、「につほり」に住んでいた僧侶・妙円(みょうえん?)が300文を納めたのだろう。つまり、15世紀半ばには地名として成立していたと考えられる。

「につほり」は仮名で記されていたが、漢字では、「新堀」だったのではないかとの説が有力だ。

 地名研究家の谷川彰英は、農業用水などに利用する「新しい堀を開墾したことに由来すると考えるのが自然」と述べている。江戸時代に「日暮らしの里」と呼ばれるようになると、「新堀」の地名に「日暮里」の文字を当てるようになったと考えるのが妥当なようである。

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「新堀」の由来については他にも、〈室町時代後期の武将・太田道灌配下の新堀玄蕃(にいほり・げんば?)が住みついた〉(『江戸名所図会』)

〈戦国時代に後北条氏が記録した『小田原衆所領役帳』に名がある遠山弥九郎が土塁と掘(すなわち新しい堀)を築いた〉(『新編武蔵風土記稿』)

 などの説があるが、いずれも信ぴょう性は低い。というのも、太田道灌が豊嶋郡に進出したのは長禄年間(1457~60)頃で、「につほり妙円」が300文を納めた時期より10年ほど後のことだからである。つまり、その後に新堀玄蕃が住んだのが事実だったにせよ、それ以前から「につほり」の地名はあったことになる。『小田原衆所領役帳』に至っては16世紀前半のもので、太田道灌よりもさらに後の時代であり、遠山弥九郎が「堀を造った」記録が残っているわけでもない。いずれも、後世の創作の可能性が高いといえる。

「新堀」は、東京都江戸川区や山形県酒田市、埼玉県新座市、新潟県三条市、富山県射水市、山口県周南市など全国各地にあるありふれた地名だ。それが、ある地域でたまたま「日暮里」という新しい息吹が吹きこまれたのではないだろうか。

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