旧宮家のひとつである久邇(くに)家は、南北朝時代から始まった伏見宮家の第20代当主邦家親王の王子・朝彦(あさひこ)親王によって1875年に創設された。1944年生まれで現在81歳の朝宏(あさひろ)氏は、第3代当主の朝融(あさあきら)王の三男として生まれた。朝宏氏は民間人として、どのような人生を歩んできたのか。

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 ――朝宏さんは、3歳の頃に皇籍離脱を経験されています。使用人も多く、美術品が飾られていた渋谷区常磐松のご自宅から、新宿区西落合に引っ越したと伺いました。生活はどう変化していったのでしょうか。

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 久邇 物心がつく前だったので、離脱前のことは全く覚えていないのです。私が育ったのは、まったく普通の家庭でしたから、のちに行事などに参加すると「うちが宮家だったの?」と驚いてしまうほどでした。

久邇朝宏氏 ©文藝春秋

 ――ご両親が宮家だった時代の久邇家について、お話しされることはありましたか。

 久邇 母は、残念ながら早くに亡くなったので、ろくに会話もできませんでした。父からも一切、当時の話を聞いたことがありません。西落合の家には、皇籍を離れた後にもお手伝いさんが5人ほどいたのですが、そういった話は禁じられていたのか、私の耳に入ってくることは一切ありませんでした。

 ――どのような少年時代を過ごされましたか。

 久邇 6歳になって、学習院初等科に入学しました。私は、三笠宮崇仁さまの長女の甯子(やすこ)さんと同級生なんです。ご結婚されて、今は近衞甯子さんとなっています。学習院女子部の同窓会である、常磐会の会長も務められました。

 現在の初等科は「東・西・南・北」に分かれていますが、私が入学した当初は2クラスだけでした。私は西組、甯子さんは東組。彼女のクラスは、後に科長(学習院初等科では校長のことを科長と呼ぶ)になった大橋先生が担任でした。いつも学習院の制服を着ている厳しい方でしたから、多少なりとも、皇族を意識した厳しい教育をしていたのかもしれません。でも私たち西組は、きわめて普通の教育でした。

 ある日の授業中、先生の話なんてそっちのけで、一心不乱に汽車の絵を描いていたんです。すぐにバレて「久邇、お前何やってる!」と怒られたのは、今でも覚えています。ほかの生徒に負けず劣らずたくさん𠮟られて、すくすくと育ちました。