やれやれ、また「悪妻」と呼ばれてしまう――。
桐野夏生さんの『もっと悪い妻』文庫版が、2026年7月7日に発売になりました。文庫解説を担当するのは、公私ともに桐野さんと親しくされてきた小池真理子さん。ちなみに、小池真理子さんの『日暮れのあと』文庫版も、今年4月に発売されたばかりです。
『もっと悪い妻』『日暮れのあと』両作品の文庫化を記念して、単行本刊行時のお二人の対談をお届します。(1回目/全2回)
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小池 桐野さんにじかに会うのは1年半ぶりくらいですね。
桐野 メールや電話はしょっちゅうしているけれど、お目にかかるのは久しぶり。小池さんの『日暮れのあと』、面白く読ませていただきました。
小池 桐野さんの『もっと悪い妻』も、すごく面白かった。今日こうして対談しているのは、偶然、お互いの新刊が同じタイミングで文藝春秋から出ることになったから。
桐野 しかもどちらも短編集でね。読んでみて驚いたのは、小池さんが折々に書かれてきた短編が、ほとんど死の話だったということ。
小池 そうね。意図したわけではないけれど、改めて読んでみると、どの短編にも死がかかわっているな、と自分でも不思議だった。
桐野 初出を見ると「白い月」が2015年。「喪中の客」と「アネモネ」が2018年の秋。19年に「夜の庭」。21年に「ミソサザイ」。22年に「微笑み」。そして今年(編集部注・2023年)のオール新年号の「日暮れのあと」と並んでいます。
ちょうど(小池さんの夫の)藤田(宜永)さんのご病気がわかったのが、2018年の春でしたっけ。
小池 そう。再発したのが、2019年の夏。それからは死に向かって坂道をすべり落ちていくような感じになって。激動でしたよ、その何年間かは。
桐野 藤田さんがお亡くなりになったのが20年1月30日。しかもすぐコロナ禍になって、私は東京、小池さんは軽井沢で、会うことさえ簡単じゃなくなったよね。
私、今回の収録作で「夜の庭」がいちばん好きなんだけど、まさにこの藤田さん闘病の激動のさなかに書いたのね。
小池 私も実は「夜の庭」が大好きなの。この「夜の庭」と「アネモネ」は、ある種の“犯罪”を描いていて、他の短編と少し趣向が変わっているかもしれない。その時期、頭の中が藤田の病気のことでいっぱいいっぱいで、やけのやんぱちでふだんと少し違うものを書いてやろうと思ったの(笑)。作家って、その時の自身の状態によって、書くものが微妙に変わってくるでしょう。
桐野 この『日暮れのあと』を読むととくにそれを感じるね。
小池 私は私小説作家ではまったくないけれども、自分の心をよぎったこと、衝撃とともに心に根を下ろしてしまった感情は、どんなに隠しても、どうしても小説の中に滲んでしまう。しかも、年を重ねるにつれ、だんだん滲み出る量が多くなっていく感じがして仕方がない。
桐野 様々なことがあったわけだし、それはごく自然なことよ。『日暮れのあと』も、藤田さんとの日々を綴ったエッセイ『月夜の森の梟』(朝日新聞出版)もまさにそうだけれど、小池さんの作家としての芯は、とくに自然の描写に投影されているように思う。降る雨の様子とか、庭の静けさとか……。
小池 鳥や動物のこととかね。
桐野 自然描写の中に小池さんを感じるんだよね。直接、心理を描かなくても、風景の中に書き手の孤独感みたいなものが立ち現れてくるというか。
死がもたらす空虚
桐野 難しい質問かもしれないけど、小池さんにとって死とはどういうもの?
小池 両親を見送ったあと、私が身近に経験して、とにかく圧倒されてしまったのは配偶者の死。しかも彼は37年間一緒に暮らし、喧嘩したり、笑ったり泣いたりして生活の細かいところを共有してきたパートナーだったから……。
桐野 同じ作家で、同志でもありましたよね。
小池 そう。つきあってる編集者までほとんど同じだった同志が、突然いなくなった。その時、不思議な感覚なんだけど、時間の流れが止まった気がしたのね。今こうやって普通にしゃべって元気にしてるんだけど、実は、彼が死んだ瞬間から私は前に進んでいるのか、それとも同じところをぐるぐる回ってるだけなのかわからなくなっている。これが喪失感というものなのか、と、時間がたてばたつほど、ずしりとした虚しさみたいなものを感じるようになって。
桐野 あなたのことをすべて知ってる存在がいなくなると、まるであなた自身がなくなったような感じがしない?
小池 する! これまで流れてきた長い時間の中で、よくも悪くも、私の存在は彼とともにあった。それが一つのまとまった光景として既にあり、しかしその世界は永遠に封印されてしまった。すべて過去のものになってしまった。だとしたら、今ここにいる自分は何なんだろうってね。
桐野 私の場合、配偶者じゃないけれども、4年前と2年前に、ふたりの親友が続けて亡くなったのよね。
小池 うちの旦那と同じ頃だったね。
桐野 そう。ほとんど同じ時期に、同じ肺がんでね。親友って、夫や子どもにはしゃべれないことを言いあえる相手でしょ。だから、友達との間で培われた自分の世界というものが紛れもなくあったのよ。その“私”が全部消えてしまって、ものすごく空虚な感じになった。
小池 空っぽとしか言いようがない虚しさって、これまで生きてきて、経験したことがない感覚じゃなかった? 小説家として私たちはいろんなことを想像の中で書いてきた。死のことも、殺人も書いてきたけれど、こんなふうにして人生の空虚を知ることになるなんて、若い頃は想像もつかなかった。
桐野 ほんとにそうだね。ということは、いずれ周囲の親しい人たちがみんな死んだら、自分はどうなってしまうんだろう。空っぽになったその先は……。
小池 どうなるのかな。私たち、よくメールで「先にいなくならないで」って言い合ってるよね(笑)。周囲からひとり減り、ふたり減り、いつかは私たちどちらかが死ぬ日もくる。
桐野 うちには犬と猫がいるんだけど、犬はもう12歳で、角膜の病気になって、弱っていくスピードが早いのね。ああ、こうやって生命は潰えていくんだな、と日々実感してます。
小池 動物の老いは露骨にわかるから悲しいよね。私、家で飼ってる2匹の猫のうち1匹が去年死んじゃって、また泣いて。なんで夫だけじゃなく、猫まで死んでいくのかって。残った猫もすでに16歳。あと何年一緒にいてくれるか、って毎日思ってる。これも順番だからしょうがない。しょうがないことは百も承知なんですよ。
桐野 承知してるんだけどね。割り切れるもんじゃない。
小池 頭では承知してるの。だけど、承知してることを実際に体感することの虚しさは、ある程度の年齢にならないと実感できないよね。

