やれやれ、また「悪妻」と呼ばれてしまう――。

 桐野夏生さんの『もっと悪い妻』文庫版が、2026年7月7日に発売になりました。文庫解説を担当するのは、公私ともに桐野さんと親しくされてきた小池真理子さん。ちなみに、小池真理子さんの『日暮れのあと』文庫版も、今年4月に発売されたばかりです。

『もっと悪い妻』『日暮れのあと』両作品の文庫化を記念して、単行本刊行時のお二人の対談をお届します。(2回目/全2回)

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『もっと悪い妻』(桐野夏生)と『日暮れのあと』(小池真理子) ©文藝春秋

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小池 『もっと悪い妻』に収録されている「オールドボーイズ」で、妻に先立たれた夫の会社のOBが「妻との思い出を書きました」って自費出版したエッセイを送ってくるでしょう。あのエピソードもおかしくって(笑)。女にはああいう発想はない。

桐野 男の人って自費出版が好きだよね。亡妻のエッセイもそうだし、自分のうちの家系図を調べて、自費出版する人は多いよ。最近も、あまりおつきあいのなかった親戚の人が送ってこられたのよ、すごく立派な自分史を。

小池 今、流行(はや)ってるよね。定年退職した男が人生をふりかえる自分史。

桐野 女の人は自分史とか全然書かないでしょう? 精神医学者の斎藤環さんが(おつしや)ってたんだけど、男は「所有」の原理で動き、女は「関係」の原理で動くんだって。男にとって過去に起きたことは、つきあった女も含めて全部、所有の対象である。だから人生を振りかえって、自分の所有物を自分史にまとめて自慢したい。でも、女の人の人生ってそのつどそのつどの関係だけだから、それをまとめるという発想がない。

小池 特に私たちみたいな仕事をしていたら、自分史なんて不要だもんね。日常的に自己表現してるんだから。

桐野 不要だよ。むしろ早く忘れたいことばかり(笑)。毎日上書き保存したい、次から次へと更新して。

小池 削除、削除、削除って(笑)。

桐野 二度と思い出したくないこと、たくさんあるから(笑)。

小池 でも、思い出しちゃうよね。

桐野 藤田さんのこと?

小池 そりゃもう、いろいろですよ。

桐野 藤田さんのことでいちばん思い出すのは何ですか?

小池 楽しく過ぎていった日々の小さな思い出とかね。でも、死んだ直後はよく悪夢を見たかな。夢の中で藤田が私の悪口を言うの。すっごく寝覚めが悪いんだけど(笑)、あれは何なんでしょう。私の心理状態がそういう夢を見させたんでしょうけど。

桐野 もっと何かしてあげればよかったとか、後悔があるのかしら。

小池 それだけは絶対ない(笑)。全部やり尽くしたもん。こんなに夫に尽くす女はいないよってくらい。

桐野 献身的だったものね。一緒になって藤田さんの病気と戦ってた。

小池 いつも桐野さんにメールで泣きついて、グズグズ言ってたよね。そうするとまた桐野夏生らしい返事が来るのよ。ありきたりの慰め方じゃなくて、私の状況を完璧に理解してくれてることがわかって、勇気づけられる返事が。桐野さんの友達も肺がんで闘病されてたしね。

桐野 がんの治療って大変だよね。一進一退、一喜一憂で。

小池 そうそう。一回よくなって、再発して……。殺しても死なないような元気な男が、日に日に衰えていって、体を触ると骨が浮いていくのがわかってくる。そういうプロセスをつぶさに見ていた。甘ったるい夫婦じゃなかったので、手なんて繋いだことなかったんだけれど、病気がわかって亡くなるまでの1年10か月の間、よく、手を握ってあげたのね。その手の感触を、なんてことない時にふと思い出すんです。まるでここに彼の手があるみたいに。不思議な感じよ、あれは。

桐野 不思議だね、ほんとに。

『日暮れのあと』(小池真理子) ©文藝春秋

小池 自宅の駐車場のコンクリートの割れ目から、春先になるとタンポポが顔を出すのね。昔は邪魔だからってすぐ摘み取ってた藤田が、病気がわかってからは「取る気にならない」と言って、スマホで写真を撮ったりしてるのよ。

桐野 わかる。愛おしいんでしょう。

小池 「命がここにあるんだから」って言ってた。

桐野 私は昔ヘビが大嫌いだったけれど、最近ゴルフ場でヘビを見ると、忌避する気持ちが起こらないの。「あんたも生きてるんだな」と思える。

小池 すべてのものにそういう気持ちになってくるんだよね。

桐野 それは「老い」よ。

小池 まさに「老い」だね。桐野さんはいつから老いを感じ始めた? 作家として、あるいは一人の女性として。

桐野 やっぱり60歳をすぎた時ぐらいからかな。私、もう71だから。

小池 私だって70歳だよ。誕生日が来ると72と71……嫌だね(笑)。

桐野 言わないでよ(笑)。60になった時、私、ちょっとびっくりしたの。「世の中の多くの人は、これでもう仕事がおしまいなんだ」って。ものを書くことはずっと続けていけるじゃない?

小池 死ぬまでできる。

桐野 60歳をすぎて、自分には何の変化もないのに、まわりの人たちが次々と会社を辞めていくのを見て、「あ、60って世間では“あがり”なんだ。仕事を卒業する年まわりなんだ」って。

小池 肉体的にはどう?

桐野 70歳をすぎたら急に目が悪くなって。耳もあんまり聞こえがよくないし、やっぱり衰えてます。

小池 ねえ。次から次へとだよね。

桐野 私、今、心房細動。

小池 うちの旦那もずっと心房細動だった。みなさん、ここから病気談議になりますよ(笑)。私は元来、そんなに丈夫な人間ではなかったけれど、藤田が死んでから、毎日毎日身体のどこかしらがおかしくなった。日替わりメニューみたいに。そのつど診てもらっても異状はなくて、おそらく旦那に先立たれたストレスがあるんじゃないかって。

桐野 あるのよ、きっと。

小池 とうとう去年の秋から不整脈もひどくなって。東京駅の構内を早足で歩いただけで息切れする。年下の友人と階段を上がると、むこうはスタスタ行くのに、こっちはついていけずにハアハアって(笑)。

桐野 息が切れてしゃべれない。「ちょっと待って」さえ言えない(笑)。

小池 これはいよいよ悪い病気になったかと不安になって、心臓のMRIを撮ったんだけど、全然大丈夫だったのよ。

桐野 よかった。結局、年なのよね。

小池 日々、老化してるんだね。

桐野 だって、70歳って、昔だったら本当のおばあさんじゃない。