ここで撮るべき映画は「西部劇だ」
映画には多様な出自を持つ人々が登場する。実に12カ国語もの言語が飛び交い、あたかも現代の移民問題の縮図のようにも見えるが、本作は決してそれを声高に主張するような作品にはなっていない。あくまで人々の日常と地続きの物語として描かれている点に、ゲリン監督のこだわりがある。
ゲリン 社会派映画と呼ばれるものが、現実の豊かさを矮小化してしまう場合があります。政治的に訴えようとするあまりそこに住んでいる人たちの現実を軽んじてしまったり、もっと豊かなものがあるにもかかわらず、メッセージ性を表に出しすぎてしまったりするのです。私は、現実の豊かさを矮小化することは、映画を貧しくすることだと考えています。確かに移民は重要なテーマですが、12カ国語を話す人々のすべてが地域を構成する要素であり、それぞれが皆、自分の現実と物語を持っています。私はそうしたことを並列して提示したかったのです。
ゲリン監督は住民に向かって、「ここでどのような映画を撮るべきか」と質問する。すると一人の老人が「西部劇だ」と答える。意外な言葉が微笑ましく、驚きを感じさせる瞬間だ。ゲリン監督は「西部劇だ」という言葉をどのように受け止めたのかと尋ねた。
ゲリン あの言葉には深い真実があると思いました。あの時、私の中に浮かんだのは「黄昏の西部劇(西部開拓時代の終焉に伴う生き方の喪失や悲哀を描いた作品)」です。西部劇においても、自分たちが開拓した場所が、文明が近づくにつれて、特に鉄道の建設などによって、どんどん破壊されていきます。資本主義が侵食してきて、人々の生活を追いやるという点において、「黄昏の西部劇」はまさにバルボナという場所のメタファーであると思いました。
老人の言葉を受け、ゲリン監督は映画の中で、あるかたちで「西部劇」を表現する。美しくもあり寂しくもあるその場面は、ぜひ映画館で体験してほしいところだ。
ゲリン 膨大な素材を分析する中で、彼が発した言葉からバルボナのメタファーを感じ取り、鉄道建設という脅威を表そうとその場面を作ったのです。客観的というより、私自身が内省し、彼の中に入り込んで、彼が恐れているものや脅威に感じているものは何だろうと考えたときに私の中から湧き上がってきたもので、「西部劇だ」という彼の言葉に対する私からの「答え」でもあるのです。

