もちろん、日本の学校の生徒だって、部活動で競技などに出れば、学校の威信をかけて、や都道府県の期待を背負って、などが出てくる。日本選抜の選手になれば、日本のプライド、みたいなものも表れてくる。けれども、それは、日本社会のなかで「朝鮮」というものを背負う重さとは比べ物にならない。差別に抗う姿を見せなければと鼓舞し、鼓舞され、感動消費されることもままあり、無邪気なだけではいられない。幼い学生にそうした気持ちを抱かせてしまうことを、立派だと褒めるべきなのか、それとも、切なく感じるのか、これも人によって受け取り方が異なるだろう。
セーフティスペースとしての朝鮮学校
14歳のソヒは、舞踊部に属しており、小学生の弟はサッカーをやっている。朝鮮学校において、舞踊部やサッカー部は花形で、スクールカーストの最上部にいる、いわゆる一軍だ。
ソヒは、容姿端麗な女子が多い舞踊部において、朝鮮学校同士の競技会に出る、選抜された踊り手である。さらに、父親が校長で、北朝鮮政府から勲章をもらっていることから、この一家は、子どもを朝鮮学校に通わせる家庭の模範的なモデルとも言える。
また、日本社会での北朝鮮への眼差しが厳しい上に、生徒数も少なく財政も逼迫している朝鮮学校になぜ子どもを通わせるのか、という疑問を持つ人もいるだろう。
それに対しては、そこがセーフティスペースであるからという部分が大きいことも知っておいてほしい。
もちろん、両親の民族意識や、思想、のっぴきならない事情もあるかもしれない。朝鮮の言葉や文化を学ばせたいという想いもあるだろう。しかし、在日コリアンとして日本社会に生きていくなかで、自分と同様の属性の仲間が学校という場にいることで自尊心を削られることなく自分を肯定することができるのは、そして、ただでさえ悩みを抱えざるを得ない成長の過程で自己否定に陥らないことは、とても大事なのだ。つまり、少しでも傷付かずにいてほしい、そんな風に考えて、朝鮮学校を選択している親もいるのだ。作中にも、そんな親が出てくる。
とはいえ、セーフティスペースの中だけでは生きられず、葛藤は生じてくる。ソヒは、日本社会の現実に足を踏み入れ、日本人の友人と接することで、その葛藤が膨らんでいく。

