待ち受けるさまざまな差別というナイフ

 コリアンタウンに暮らし、在日コリアンの友人達とばかり交わっていたソヒが、外の世界の日本社会にひとたび触れると、鈍いものから鋭いものまで、さまざまな形のナイフが待ち受けている。どうあっても無傷ではいられない。私たちは、そんな社会をいつまで続けるのかとため息が出てくる。差別というナイフを無くしたいと心から思う。

©︎2026 K2 Pictures

 北朝鮮という国を面白おかしく消費する日本人に対して、ソヒが傷つく描写が出てくる。観ていて胸が痛む場面だが、同時に「傷つくこと」を私たちがこの映画で消費してしまう危うさもあって、とてもナイーブな問題を突きつけてくる。商業映画だから、消費するのは当たり前かもしれないが、やましさを感じずにはいられない。

 それだけでなく、朝鮮舞踊で表現すべき感情に共感できなかったり、家庭内で父親に対しての不満が出てきたりと、ソヒの感情が揺れ動いていくのを見るにつけ、私たちもエモーショナルになっていく。傷つき、葛藤し、ソヒが大切なものを見つけていく過程に、私たちは、一喜一憂する。

ADVERTISEMENT

 スクリーンの中でソヒが踊る朝鮮舞踊に込められた想いは、どんなものか。

 家族や学校への愛しさがそこにはあるだろう。そういう意味ではとても普遍的なものだが、もっと複雑なものもあるような気がした。ソヒはその複雑さをまるっと肯定しているからこそ、晴々とした表情で、美しい舞姿を披露できたのではないだろうか。

 ソヒの感情は、はっきりとはわからないかもしれない。だが、この映画を通じて、誰かが信じたり、愛しく思ったりするものを、自分の価値観で無闇に判断してはならない。ましてやおちょくったり、見下したりするようなことを決してしてはならない。そのことだけは、しっかりと受け止められる。