「母と娘が仲良し」という感覚が、どうにもピンとこなかった――。厳しい継母のもとで育った泉ピン子が、戸籍の一枚で知った“家族の真実”。そして高校生の彼女が咄嗟にとった“ある行動”が、役者としての原点になった。
泉ピン子著『ピン!として逝くのもいいじゃない ピン子78歳、最後に残したい言葉』(徳間書店)より、彼女の複雑な家庭事情を抜粋して紹介する。(全4回の1回目/つづきを読む)
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父が家にいないと意地悪だった母
母親に対する違和感をずっと抱えたまま、何年かが過ぎた。母は相変わらず、父が家にいないと意地悪だった。
中学時代にお弁当箱にご飯を入れていると、「それを持って行かれたら私が食べるものがなくなる」とぴしゃり。冷蔵庫の中のごはんつぶひとつまで、計算されているような気がした。昼食代として1日10円か20円はくれたけど、それじゃコッペパンひとつ買えるかどうか。
あの人を「母」と呼びながらも、どこかでいつも一歩引いていた。
「この人の機嫌を損ねたら、ごはんにも影響が出る」と思うと、自然と距離ができてしまうのよ。
とにかく母は厳しかった。
「何やってんのよ」
「あんたはいつもそう」
褒められた記憶はほとんどない。「よくできたわね」と言われた数より、「どうしてこうなの」が圧倒的に多かった。
学校で何か良いことがあっても、家に持ち帰って自慢しようという気にならない。どうせ「そんなの当たり前でしょ」で終わるとわかっているから。
「母と娘が仲良し」という感覚がピンとこない
高校生の時に「学費を」っていったら「いるの?」って言われたのも忘れられない。学校の先生に私、「忘れちゃいました」って言うしかないじゃない。
友だちが、「この前ママとデパート行ってね」「母とお茶してきた」と何気なく話すのを聞くと、胸の奥がザワッと波立ったもんよ。よその家の「普通の母娘」がまぶしすぎて、真正面から見られない感じ。
母と娘が並んでショーウィンドーを見て、「これ似合うんじゃない?」「その色はやめなさいよ」と笑い合う。そういう光景はテレビの中では見るけれど、私の現実には一度も出てこない。だから、「母と娘が仲良し」という感覚が、どうにもピンとこなかった。
「本当にそんな家、あるの?」と、どこかで疑っていた。

