鏡のように語り手の顔を映し返す存在

 そういったやり取りについて、心当たりがあるという人は多いのではないだろうか。

 学校なり職場なり、星野源という人物が話題にあがる際、その切り口や印象はいつも散らばっていて、どの時期について話すかによっても話の筋が全く違ってくる。そもそもアーティストとしての話をしていたはずなのに、気がついたら別の一面の話題になっている──。

 こういった、それぞれが違う入口から話し、どこから話しても正しいのだが全体像として結実しない状況を、この後も度々目にしたり耳にしたりするようになった。語る人の立場や関心によって見えてくる像が違うからこそ、彼は、鏡のように語り手の顔を映し返す存在なのかもしれないと思うようにもなった。音楽好きは楽曲の話をし、演劇好きは役者として語り、文筆に惹かれる人はエッセイを引用する。彼を語ることは、ある意味で自分自身の関心や価値観を語っていることに近い。星野源という人物は、それだけ受け取る側の解釈にゆだねる余白を持ちあわせている。

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 そもそも星野源とは、なぜか無性に語りたくなってしまう存在でもある。

©文藝春秋

 SNSでも、そこかしこで語りの対象となり、時にいわれのない批判をされたりもする。私たちはなぜ、星野源についてこんなにも言及したくなるのだろうか。前述した通り、彼は決して分かりやすく語れる存在ではない。けれども、その語りにくさこそが逆に、語ることの欲望を喚起してもいる。言葉にできそうでできないもの、ぴたりと当てはまる表現が見つからないとき、人は語り続けることをやめないのだ。

 そういった意味で、彼は「語りたいのに語りきれない」私たちの言語化欲の鏡でもある。だからこそ、誰かと星野源の話をしていると、なぜか自分自身のことを語っているような気分にもなってしまうし、それはどこかむず痒い、奇妙な手触りを感じさせもする。つい自分の話をしているような錯覚に陥って、しかも会話が進むにつれ「あれ、なんでこの話になっているんだっけ」とふと気づき、他人の語りを聞いても、分かるようで分からないズレが生じる。そして、そのズレを共有することでなぜか盛り上がったりもする。そういった空気こそが、星野源という存在のリアリティなのだ。