分散するイメージ

 それ以来というもの、私はこの不思議な存在であり雲をつかむようなアーティスト性について、さまざまな想いを巡らせるようになった。果たして、彼のような特異なポップスターがいま日本に存在するだろうか。たとえば宇多田ヒカルにしろ、椎名林檎にしろ、米津玄師にしろ、どの偉大なアーティストも、なんとか乱暴に一言でまとめることができなくもない。

 宇多田ヒカルであれば「グローバルでの道を拓き続ける孤高の音楽家」、椎名林檎であれば「伝統と前衛を融合する、意匠化された世界観」、米津玄師であれば「内面を外界に開いた、デジタル時代の自己完結型アーティスト」といった形で、実像を全て掬いあげているかはともかくとして、どうにかコピーライティングができる。そういった象徴的なイメージやスタイルがアイコン化され、大衆に消費されるというサイクルによって存在感が増殖・拡張されていくのが、ポップスターというものだ。

 しかし、星野源という存在は分散し、さまざまな顔を持ったイメージの集合体になっているため、そうはいかない。アーティストとしてだけ見ても時期によって作風が異なっているし、特定の音楽ジャンルにとらわれていない。

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 活動全体を見ても、シンガーソングライター、プロデューサー、俳優、文筆家、ラジオパーソナリティ……と、そのどれをピックし語るかで星野源像はまったく違った輪郭を持ちはじめる。あるいは、「お茶の間の人気者」「文化系男子」「国民的ヒットメイカー」といった切り口でのタグをつけることもできるが、やはり決定打となるイメージはなく、むしろ多様な文脈でそれぞれの星野源像が作られ、各人の中でさまざまなイメージがアメーバ的に各所でつながっているように見受けられる。

「MUSIC AWARDS JAPAN 2026」のレッドカーペットに登場した星野源 ©時事通信社

 それは、先のポップスターの定義に沿って考えるなら、「消費される」というよりも「それぞれが繋がり、じんわりと浸透する」といった方が近い。かつて恋ダンスが流行したときも、踊るのはキャラクター化された星野源ではなく、一般の人々自身だった。彼のポップ性は、象徴の固定ではなく、それが日常に溶け込むことで機能しがちだ。つまり、ポップスターでありながらも、ひとつの記号に還元されることを拒む存在、あるいは、その記号性自体が多方向に拡がり続けるような存在なのである。

 なぜ星野源にだけ、そういった芸当が可能なのだろう?

 しかも、それだけ多岐にわたる活動を行ってきた中で、どれもが高いクオリティを保っている。批評メディアではアルバムリリースの度に年間ベスト企画等にランクインし、CDショップ大賞などのアワードも幾度となく受賞してきた。筆者は普段たくさんのミュージシャンを取材しているが、影響源やレファレンス元として、星野源の作品の名前が挙がる頻度は非常に多い。また、俳優業や文筆業についても、伊丹十三賞や日本アカデミー賞など、受賞してきた栄誉は枚挙にいとまがない。

 そもそも、そういった受賞歴を持ち出すまでもなく、いわゆるサブカルチャーの業界では常に評価され注目されてきた存在だ。それこそイメージが分散している人物なだけに、もしかするとお茶の間では過剰に「天才」と持ち上げられてきた印象はないかもしれないが、実のところ各ジャンルで着実に成果を上げてきた、稀有な存在であることは間違いない。

次の記事に続く 14歳で作った歌詞は「人の関係がわからない」、高校生で精神が“パンク”して引きこもりに…学生時代の星野源が抱えていた“ドロドロした想い”

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