音楽との出会い

 音楽と出会ったのも中学生の頃だった。附属の幼稚園や小学校では英語を教えていたため、クラスメイトは英語がペラペラだったが、中学から入った和田は英語がからきしダメ。そこで向かったのが、父が歌好きだったため何度か訪れたことのあるレコード店だった。

 店員に「覚えやすい英語の歌ない?」と尋ねたところ、出てきたのがレイ・チャールズの「愛さずにはいられない」。すぐにハマった和田はレコード店に通い詰め、アレサ・フランクリン、オーティス・レディング、エラ・フィッツジェラルド、サミー・デイヴィス・ジュニアなどの黒人音楽に耽溺していく。

 なかでも、もっとも心惹かれたのがレイ・チャールズだった。歌手になってからも心の支えであり続け、「レイちゃん」と呼んで写真に毎日手を合わせていた。後年は共演も果たしている。

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「ミナミのアコ」と恐れられる存在に

 家出を繰り返していた中学2年生の頃から子分ができるようになった。当時から体が大きく、柔道初段の腕前で負けず嫌い。ケンカは日常茶飯事であり、道頓堀川に投げ込んだ男もいたという。子分は年上の男ばかり20人以上に膨れ上がり、和田は“ミナミのアコ”として恐れられる存在になっていた。

「『日本一の女ヤクザになったる』と本気で思っていた。中途半端なことは大嫌いな性格なんですよ」(朝日新聞 2017年6月1日)

 背中に観音様の入れ墨を入れようとしたが、お金が工面できずに諦めたため、結果的にはやくざの道を歩まなかった。これが大きな分かれ目だったのかもしれない。友人の家や安ホテルを転々としていた和田は、やがてゴーゴー喫茶やキャバレーに飛び込んで歌うようになる。

©時事通信社

入学から3日で起きた“強制退学事件”

 そんなとき、決定的な出来事が起こる。

 学校にはサボりながらも通っていたため、高校には進学できた。しかし、父が勝手に退学届を提出してしまう。「こんな不良がいるために、学校の品位が下がったらあかん」という理由だった。高校に在籍したのは、わずか3日。これで和田は完全に実家と訣別した。

 この頃、“浪花のモーツァルト”こと作曲家のキダ・タローが大阪の繁華街で、“ミナミのアコ”時代の和田を目撃している。

「ある日、行きつけの喫茶店にはいって行きましたら、カウンターに大きな屏風が立ててあるんです。ナンヤ改装すんのかいな? よう見たら客の背中です。まるで空母の甲板ですわ」(キダタロー『キダタローのズバリ内証ばなし』ナンバー出版)

 キダ・タローらしく冗談めかして書いているが、当時の和田が発していた圧が伝わってくる。イラスト担当の成瀬国晴も「ボクも若いときケンカのつよい女の子がいるという噂を聞いてました」と書き添えていた。