魚市場から新日本プロレスに入門し、収入が10分の1以下に激減した藤原喜明氏。月5万円の給料すら出ない極貧生活ながら、飯が食えて練習し放題の毎日は「天国だった」と振り返る。

 旗揚げ当時の喜びと苦労を、新刊『証言 アントニオ猪木 絶望と復活の闘魂人生』(宝島社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/続きを読む

藤原喜明氏 ©getty

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「収入は10分の1以下になったんじゃねえかな」

 70年代にアントニオ猪木の付き人兼スパーリングパートナーを務め、猪木の晩年には、かつての弟子の中で最も深いプライベートでの付き合いがあった藤原喜明。

 新日本プロレスに在籍したのは、旗揚げした72年の11月から、プロレスブームの絶頂期の最後である84年6月まで。つまりテレビ放送のなかった新日本黎明期や、モハメド・アリ戦後の世間からのバッシング、そしてプロレスブームの裏で個人的事業アントン・ハイセルの金策に追われた時期まで、猪木の苦闘を間近で見てきたということだ。

 その原点である新日本入門当時を藤原はこう語る。

「新日本に入門できたのはいいけど、会社はいつ潰れるかわからないような状況だったんだよ。とにかくお客が入ってなかったし、わずかばかりの俺らの給料も遅れるっていうか、給料が出ない時もあったからな。まあ、給料というか“お小遣い”だよな。

 当時は選手としてデビューしていても月5万円だったから。会社にはそれすら払うお金がなかったってことだ。

 俺は新日本に入る前、横浜の魚市場で働いていたんだ。要するに仕事はマグロの解体だから、冷凍マグロにまさかりみたいなのを当てといて、そこにハンマーを振ってカチンカチンと割るんだよ。今、でっかいタイヤにハンマーを振り下ろすトレーニングがあるみたいだけど、俺らは仕事でそれを早朝からやってたから。冬でも俺たちは上半身裸で、体から湯気を立てながら4時間も5時間もやるんだ。お正月なんか、マグロ何百本だからね。

 その魚市場での仕事は、早朝から始めて長くても1日4~5時間。そのあと、俺は家に帰って昼寝したあと、元・日本プロレスの金子武雄さんがオーナーだったスカイジムで目一杯練習することができた。朝だけの仕事でもけっこう稼げたからね。それが新日本に入ったらお小遣い程度で、それも遅れたり、出たり出なかったり。魚市場で働いていた時とくらべたら、収入は10分の1以下になったんじゃねえかな。

 でも、その代わり飯がたらふく食えて、酒が飲めて、練習はし放題。大きな風呂があって、住むところまであるんだから、当時の俺にとっては天国だったよ」

師匠であるアントニオ猪木氏 ©文藝春秋

 旗揚げ当時の新日本は、客を呼べる看板レスラーはエースの猪木一人。あとは引退していた豊登が「テレビがつくまで」との約束で友情参戦した以外、一般的に知られていたのは山本小鉄くらいだった。外国人レスラーも無名ばかりで、当然、興行は苦戦の連続だった。新日本を立ち上げてから1年間の累積赤字は、1億円に達しようとしていたという。

次の記事に続く 「最後は猪木さんも泣いていた」命も大金もかけたのに結果は…【猪木VSアリ戦】はなぜ「世紀の大凡戦」と酷評されたのか