新日本プロレス旗揚げ時、収入が10分の1以下に激減しながらも極貧の若手時代を駆け抜けた藤原喜明氏。やがて猪木の付き人兼用心棒となった藤原氏は、1976年のモハメド・アリとの「格闘技世界一決定戦」でもセコンドとしてリングサイドから世紀の一戦を目撃していた。

 大金と命をかけたプレッシャーの中、精神的に追い詰められていく猪木。「真剣勝負はああいうものだ」と語る藤原氏が見た、リング上の壮絶な緊張感と、試合後に世間から「大凡戦」と猛バッシングを受けた舞台裏とは。

 新刊『証言 アントニオ猪木 絶望と復活の闘魂人生』(宝島社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む

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アントニオ猪木VSモハメド・アリ。「負けたら破産」の真剣勝負だった ©getty

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 当時の新日本の巡業の様子を藤原はこう語る。

「昔は巡業バスなんかなくてね、みんな電車移動だよ。在来線を乗り継いだり、遠くても特急電車。グリーン車は猪木さんとか一部の幹部だけで、あとはみんな当然普通席。自前のバスを買ったのなんか、ずいぶん経ってからだよ。だから俺らもいずれグリーン車に乗るのが夢でな。そういう夢があるっていうのはいいもんだよ。

 それで宿舎はホテルなんかじゃなくて、たいてい旅館でな。俺たちは下っ端だから、大部屋に布団を敷き詰めて、ぎゅうぎゅう詰めで寝たよ。プライバシーなんかあるわけがない(笑)。でも、若かったから楽しかったよ。毎日が芝居一家の旅みたいな。もう遠足の延長だからね」

厳しいコーチであり、神様だった猪木

 なかなか観客数が伸びる要素がないなか、猪木が取った方策は「全力ファイトで、次も観に来させる」という実にシンプルなものだった。

「客が入ってない時こそ、『今日来た客を一人も逃すな!』っていうのが、猪木さんからの至上命令だったからね。とにかく全日本プロレスや国際プロレス、その前の日本プロレスとくらべて、新日本はすごいぞと思わせるっていうね。

 そのために、前座の試合の最中に猪木さんがリングに上がってきて、『てめーら、なんだこの試合は!』って怒鳴りながら、俺らを竹刀でぶっ叩くんだよ。要するに、お客さんに『新日本はすごいな』『厳しい修行をしてるんだな』と思わせるための見せしめだよな。今だったら、パワハラかつ暴力行為で完全にNGだろうけど、当時はそんなことまったく思わない。試合中にぶん殴られても猪木さんを恨むヤツなんて誰もいなかったよ。

 猪木さん自身が忙しいなか厳しい練習を欠かさなかったし、実際に強かったし、立ち姿もカッコいいからみんな憧れてたんだよな。まあ、厳しいコーチであり、神様でもあったな」