夜になって、銀座7丁目の喫茶店で化粧品店に勤務する恋人の藤本佐文(同18歳)と落ち合う。彼女は日大文学部の藤本藤次郎教授(同60歳)の娘で、いわゆる令嬢だったが、夜な夜なダンスクラブに出入りする「アプレ族」を象徴するようなプレイボーイ気取りの山際と付き合い始めたころから不良性を発揮するようになったそうだ。

 犯行当夜、2人は目黒駅前の旅館で一泊。翌日、山際はGHQの職員2世とその妻と称して品川区大井の会社員宅を間借りする契約をし、高飛びする計画を立てていた。

 が、事件から2日後の9月24日昼間、間借り先の夫婦と酒盛りをしていた際、大家の妻が肩鞄やボストンバッグに千円札や百円札が剥き出しになっていること、山際の左腕に「ジョージ」と入れ墨が入っていることや彼の会話に英語が混じっていることを不審に感じ警察に通報。

ADVERTISEMENT

 16時ごろ、大森警察署員が下宿先に急行し、2人に同行を求めた。このとき彼らは6畳間にあるダブルベッドに寝そべっており、容疑事実を追及されると山際は佐文に向かい「オー・ミステーク」と肩をすぼめ、手を広げて叫んだそうだ。

流行語になった「逮捕時の言葉」

 2人の犯行は新聞で大きく取り上げられており、逮捕が報じられると、作家の林芙美子(1903-1951)が朝日新聞に〈捕まる時に叫んだという「オー・ミステーク」という言葉は、現代の社会を風刺しているようで、全く喜劇的な、落下していく人間の不気味な声であるように思った〉と書いたことで、この言葉は世の中に広く知れ渡り、事件は後にアメリカかぶれの少年が起こした「オー・ミステーク事件」とも呼ばれるようになる。

 強盗傷害罪と同幇助罪で起訴された山際と佐文の裁判は1950年12月13日から始まり、翌1951年2月23日に判決。少年法が適用され、山際に懲役4年~7年の不定期刑、佐文には懲役2年執行猶予3年が言い渡された。山際は水戸少年刑務所では模範囚として過ごし1954年6月に仮出所。