「入院中は逮捕できないのは当然として、退院後に逮捕するかどうかが問題」
捜査本部は、一〇〇〇ページに及ぶ刑事訴訟法の逐条解説書の該当部分を読み込み、逮捕あるいは不逮捕の根拠となる法解釈を検討した。刑事訴訟規則第百四十三条の三で、逃亡や証拠隠滅の恐れがなければ逮捕できないと定めている。
「逮捕状の請求を受けた裁判官は、逮捕の理由があると認める場合においても、被疑者の年齢及び境遇並びに犯罪の軽重及び態様その他諸般の事情に照らし、被疑者が逃亡する虞がなく、かつ、罪証を隠滅する虞がない等明らかに逮捕の必要がないと認めるときは、逮捕状の請求を却下しなければならない」
東京地検の方針も「不逮捕」
捜査方針の決定をめぐっては、警視庁だけではなく、検察の影響力も大きかった。刑訴法に基づくと、検察官は警察官に対して捜査の指示を行うことができる。いわゆる「検事指揮」と呼ばれるものだ。東京地検の方針は「不逮捕」だった。
捜査幹部は葛藤しつつ現実的な判断に傾いてゆく。
「退院しても逃亡や証拠隠滅は考えにくいと考える。逮捕状を請求しても裁判所が却下する可能性が高い。万が一逮捕状が取れたとしても、検察へ身柄を送った後に釈放になる。多面的に考えると、任意捜査が妥当。逮捕したいところなんだが……」
逮捕しない場合の自殺の可能性についても検討した。しかし、自殺の恐れを理由に逮捕すると、交通死亡事故の加害者は全て逮捕せねばならなくなるため、この議論は一旦却下された。
当時の警視庁トップ、三浦正充警視総監も世論の圧力を意識していたとみられる。「その判断は間違っていないので、何とか持ちこたえてほしい」と激励した。