ブランド住宅地と呼ばれる街があるが、ブランド住宅地というのはどのように形成されてきたのだろうか。たとえば東京には「山の手」と「下町」という呼び方がある。「山の手」という言葉にはブランド住宅地としての風格が漂う。山の手言葉といえば、どこか上品な響きがある。では東京の「山の手」とはどこら当りを指すのだろうか。
江戸時代に誕生した「下町」
東京は江戸時代には江戸城近辺から西の武蔵野台地に向かって切り開かれ、そこに多くの旗本や藩士が住みついた。江戸城の東は低地になっていて災害などには弱い構造になっていたため、武士は住まずにもっぱら町人が住む街となり、これを「下町」と呼ぶようになった。
明治時代になると江戸は東京府とその名称を変えるが、山の手にあった幕臣たちが住む武家屋敷の多くは接収されて、維新政府の関係者やそれを支援する財閥、文化人や資本家の手に渡ることになった。権力の移転は街の住民の入れ替えにつながるのだ。東京の一等地を我が物にした彼らはその地に邸宅を建設していったのだが、このことが後の高級ブランド住宅地としての「山の手」を生んだのである。
「老舗の山の手」と呼べる街とは?
さて東京の山の手は具体的にどこなのだろうか。東京府は1878年(明治11年)に府内に15の区を設けている。区名は麹町、神田、日本橋、京橋、芝、赤坂、麻布、四谷、牛込、小石川、本郷、浅草、下谷、本所、深川の15区だ。このうち山の手と呼ばれたのは四谷区、牛込区から麹町区、赤坂区、麻布区近辺、さらに北に向かって小石川区、本郷区あたりまでを指したようだ。
この時期からのブランド住宅地としては四谷、牛込、番町、麹町、紀尾井町、赤坂、麻布、小石川、本郷といった街が該当する。これらはいわば「老舗の山の手」とも呼べる街なのだ。ブランド住宅地は幕臣たちの住んでいた屋敷に加え、有力外様大名の上屋敷や中屋敷、下屋敷跡周辺にも広がっていった。大名や武士たちは、地震や津波、台風などの自然災害に強い高台を選びそこに住んだ。したがってこれらの街の多くが高台に立地していたのも特徴だ。
関東大震災がきっかけで開発された新しい高級住宅地
明治以降の東京は急速に人口が増加するにつれ、住宅地も西および南に広がっていく。特に1923年に発生した関東大震災で東京は壊滅的な打撃を受けるが、被災した人々を新たに安全な高台に誘導するために新たな住宅地が開発されていった。渋谷の松濤や富ヶ谷、桜新町や深沢といった街だ。また、昭和期以降は新しい高級住宅街として品川の御殿山や、池田山といった住宅地が開発され、島津山、花房山、八ツ山とあわせて城南五山と呼ばれ、今でも品川区内での高級住宅地としての名をほしいままにしている。
鉄道会社が開発した街
さらに鉄道会社が東京の郊外に電車を走らせその沿線に高級住宅街を開発していった。東急線の田園調布や久が原、等々力、小田急線の成城学園などが代表的なブランド住宅地だ。
これを現在の東京23区で考えると、ブランド住宅地と呼ばれる街は、新宿区、千代田区、港区、文京区、世田谷区、品川区、大田区、渋谷区、北区にほぼ絞られる。そしてやはり、そのほとんどが「高台」に立地している。