兄は黙って受け流した。
診察を終えて廊下に出ると、兄はふらつき、壁に手をついて歩く。以前細マッチョだった体は一切の肉が落ち、骨格だけが残っている。支えようと手を取ると氷水に手を入れていたように冷たかった。「大学病院は広いから、院内の移動だけでも車椅子が使えるといいね」と言ったが、兄は首を振った。
驚いたのは外に出て、兄が病院まで自分で車を運転して来ていたことを知った時だった。「痛みや貧血でいつ倒れるかわからないんだから、タクシーで来ればいいのに」と言うと、「ダメだよ。俺、女房に1円でも多く金を残してやりたいんだ。もう、俺のためには金を使いたくないんだよ」。
後から聞いた話では、兄嫁は、兄の詳しい病状も、抗がん剤の副作用が死ぬほどつらいことも知らなかった。10歳近く年下の妻に、心配をかけたくなかったらしい。だから事実を知らないまま、兄嫁は夫婦二人の生活を支えるために仕事を続けていた。
介護保険が使えていれば、訪問介護、介護ベッド、車いす、通院時のタクシー、すべて賄うことができたのに、どうして兄は使わなかったのか。
使いたくても使えなかったのだ。
制度上は対象でも、現実には「間に合わない」
40歳以上になると納める介護保険料。けれども、いざ介護が必要になったとき、誰もがすぐにサービスを使えるとは限らない。
とくに問題なのが、病状が急速に変化する終末期のがん患者である。介護保険は、65歳以上なら原因を問わず、40〜64歳なら末期がんなどの特定疾病で要介護・要支援状態になった場合に利用できる。
制度上は対象でも、必要な時期にサービスが間に合わないケースは少なくない。しかも、がん患者に必要な支援は「亡くなる直前」だけではない。抗がん剤治療中には、強い倦怠感、吐き気、食欲低下、痛み、しびれなどで、短期間に生活の質が大きく落ちることがある。昨日まで何とか自分でできていた排泄、入浴、食事、通院が、急に難しくなる。その時に介護保険が使えないと、患者は自宅で孤立し、家族も限界まで抱え込むことになる。