静かに「蘇州夜曲」を歌い始めた李香蘭の隣で考えたこと
青木 ノンフィクションの書き手は取材を進めていく過程で、思いも寄らない出来事に遭遇してしまうことがある。三浦さんにもあるでしょう?
三浦 僕が忘れられないのは、李香蘭(山口淑子)です。晩年、何度かお食事をご一緒させていただきましたが、彼女、すごく飲むし、食べるんです。でも、タクシーに隣り合わせに乗った時、少し酔われていた彼女がふいに「君がみ胸に 抱かれて聞くは~♪」と、静かに「蘇州夜曲」を歌い始めて……。全身の全細胞がザワザワッと泡立つような感覚でした。建国大学の人たちをはじめ、満州の方々、全員が愛してやまなかった歌を、今、自分の隣で李香蘭が歌っている――。情けないのは、タクシーの背もたれに身を任せて聴けばいいのに、「何とか、この歌声を録音できないものか」と職業病が出て焦ってしまう。自分はなんてダメな人間なんだろう、と……(笑)。
青木 急に重要な局面が来て、なんとかレコーダーを回そうとした経験は私もあります。三浦さんも、しっかり歴史の現場にいるのがよくわかります。李香蘭については、いつかまとまった本にするのでしょうね。
三浦 そうですね。ただ、その李香蘭もかなり前(2014年)に亡くなっていますし、ノンフィクションの書き手としては、戦争をテーマにする際、証言者がどんどん少なくなっているのが喫緊の課題です。
戦争の真偽を検証できなくなる時代がやってくる
青木 私が『731』をやっていた頃ですら、取材をはじめるのが遅かった、と悔やんでいましたけれど、まだあの頃を知る人たちは居たんです。今後は、いよいよ日記や資料しかなくなるでしょう。そのうえで、戦争と戦後をどのように書いていくかは、我々に課せられた難題ですね。
三浦 これまでは戦争を扱ったノンフィクションに創作や嘘が紛れ込んでいると、戦争を知る世代から「いや、そんなことはなかった」という声が挙がって、それが一定の抑止力になっていたと思うんです。でも今後、そういう声がなくなるにつれ、どうしてもフィクションが混ざりやすくなる。あの戦争について何が正しくて、何が間違っているか、誰も真偽を検証できなくなる時代がそこまで来ています。書き手としてどうすべきか、何ができるのか、まだ私の中でも答えが出ていません。あと、もう一つ、書き手として脅威になるのがAI(人工知能)です。青木さんはAIについてどう考えていますか。
