妊娠8ヶ月の女性まで冷酷に死に至らしめただけじゃない。アイスピックで刺殺された被害者や、全裸で土中に埋められた被害者も……。若者たちはなぜ暴走したのか?
昭和の日本を震撼させた「連合赤軍」の実態を、鉄人社の新刊『高度経済成長期の日本で起きた37の怖い事件』よりお届けする。(全2回の1回目)
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「連合赤軍」と聞いて最初に頭に浮かぶのは1972年(昭和47年)2月に発生、山荘管理人の女性を人質に立てこもり、警察との攻防戦を繰り広げた「あさま山荘事件」だろう。
しかし、彼らはその直前、群馬県の山中に設置したアジトで極めて残虐な行為に手を染めている。組織内で「総括」が必要とされたメンバーに対して詰問・暴行・極寒の屋外に放置・絶食の強要などを行い、結果として12人を死に至らしめた、いわゆる「山岳ベース事件」。あさま山荘事件とともに新左翼運動衰退の契機ともなった恐るべき事の顛末。
学歴エリートたちが組織を結成
1960年代末から1970年代初頭の日本は大阪万博(1970年)に象徴される成長経済を享受する一方、ベトナム戦争(1965-1975)に対する反対デモが全国で展開されていた。問題視されたのは、北ベトナムに空爆を行うアメリカ軍の基地が日本に約140ヶ所あり、そこからベトナムへ物資が送られていた点だ。
「全学連」(全日本学生自治会総連合)や「全共闘」(全学共闘会議)ら大学生を中心とした若者たちは日本も戦争に加担しているとして、1970年の日米安保条約(日本とアメリカの間で締結された軍事同盟)の自動更新を阻止すべく、大学を占拠したり機動隊に火炎瓶を投げるなど激しい抗議運動を繰り返す。
しかし、戦争反対、民主主義の拡大、貧富の格差解消などを主なスローガンとした学生運動は東大安田講堂事件(1969年1月)を境に下火となっていき、それに取って代わるように「新左翼運動」が台頭し始める。これはソ連や中国の共産主義を参考にしつつ、日本共産党とは違う独自の路線で革命を目指す闘争で、彼らは「内ゲバ」(内部ゲバルトの略、同じ左翼グループ同士の暴力的な争い)で互いを攻撃し合った。

