1970年3月、「赤軍派」(共産主義者同盟赤軍派)のメンバー9人が起こした「よど号ハイジャック事件」(日本航空機を乗っ取って北朝鮮へ逃亡)で世間の注目が集まるなか、赤軍派の残党は1971年7月、「京浜安保共闘革命左派」と手を組み「連合赤軍」を結成。

 メンバーは合計29人(男17人、女12人)で、中央委員長は森恒夫(当時26歳。元赤軍派。大阪市立大学中退)、副委員長が永田洋子(同26歳。元京浜安保共闘。共立薬科大学卒)、書記長が坂口弘(同25歳。元京浜安保共闘。東京水産大学中退)、その他中央委員は序列順に寺岡恒一(同23歳。元京浜安保共闘。横浜国立大学中退)、坂東國男(同24歳。元赤軍派。京都大学中退)、山田孝(同24歳。元京浜安保共闘。明治大学中退)、吉野雅邦(同24歳。元京浜安保共闘。横浜国立大学中退)の4人が務めた。

 互いを「同志」と呼んだメンバーの大半は1970年12月の東京・上赤塚交番襲撃事件(警官殺害)、1971年2月の真岡(栃木県)銃砲店襲撃事件などで指名手配の身にあり、都市部から逃げるように群馬県の榛名山、迦葉山、妙義山などにアジト(山岳ベース)を構築。共同生活を送りながら、武装蜂起による革命を目標に、1971年12月初頭より合同軍事訓練(射撃、持久走、地図読みなど)を実施する。

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革命に適した人間を作るための「総括」

 同時にリーダーの森は、自分の過去の行動を振り返り、革命に適した人間になるため自己を批判する「総括」を押し進め、やがてそれは言葉の討論から、暴行(殴打、蹴り)、絶食(食べ物を与えない)、極寒の屋外放置、縄縛りへとエスカレートしていく。

 副リーダーの永田は特に女性メンバーに厳しく、化粧や恋愛などをすることを「ブルジョア的」(資本主義的な贅沢思想)と非難。森の権勢欲、永田の嫉妬、雪深い冬山での共同生活によるストレスもあいまって、メンバーはやがて破滅へと突き進んでいく。

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